霊界通信 「悩み・トラブルを抱えている人たちに」悠々塾ホームへ

 人の噂(話題)

どんな気持ちで、どんな話をするのかによって
そこに生ずるエネルギーは人を傷つけもし、支えもするのです。

あなた方は日々、人との関わりのなかで暮しています。そしてその関わりのなかで、さまざまな感情を動かしています。また、直接的には関わらなくとも、何か(誰か)を目にし、耳にするだけでも、“感情”は動きます。
もちろん、全てのことを好意的に受けとめたり、肯定的に見たり、自分のことのように喜んだりできはしません。むしろ、そうでない方に“感情”の動くことの方が多いでしょう。自分が絶えず喜びに満たされ、幸せだと思うことのできる人は、他の人々に対しても温かい眼差しを向けることができます。しかし今の世で、「幸せだ」と感じつつ生きている人はほとんどいません。誰もが何かしらのかげりを抱きながらの毎日です。それは、寂しさ、物足りなさ、不安、心配、妬み、反感・・・と書き出したら“きり”がないほどあります。

人が何かを“話題”とするのは、そのことに何らかの「心の動き」があったからです。驚き、驚嘆、喜び、興奮だけでなく、妬み、うらやみ、ひがみ、否定、批難・・・というように。それは自分もそれを喜びとできるかどうかが心の動きのもととなっています。
感動を覚え、その喜びを共有したくて話題にする時、あるいは悲しみや憤りを感じなからも、その先の幸せや喜びを願って話題が生まれる時は、そこには喜びや祈りや願いというエネルギーが生じ、それは話題に上ったこと・者のところへ届きます。意識し、思い、言葉に出す、それぞれのことがすでにエネルギーを生むのですし、対象があるならば、そこに届くのです。ですからそれが善意や優しさに基づいたものであるならば、その光のエネルギーは対象にとっては愛情を注がれたに等しいものとなります。
しかし逆に、“自分”にとっては嬉しくないから、“自分”が嫌だと思うから、という感情から“話題”が作り出された時には、そこにあるのはかげりのエネルギーのみです。ちょっとした話であっても、その奥に見えかくれする意地悪な空気は、その話に乗った者たちの間に広がっていて、さらにそのエネルギーは話題とされた対象を、見えない形で傷つけています。意識し、思い、言葉にすることでエネルギーが生じるのは「善意」に基づくものの時と同じです。

大抵の“噂話”が、それぞれの者の抱く何かしらのかげりのはけ口になっているのが本当のところです。それぞれの者の抱くかげりを、“言えるところ”で“言える形”で“言える人”に出しているのです。自分のなかにあるかげりが光に変わることなく、そのままあれば、その心はそれを吐き出す場を求め続けるのです。本来、言葉とは心の喜びを、希望を、感謝を形として示すため、相手に伝えるために遣うものです。そうであって初めて、言葉は健やかなものなのです。

何人かが集れば、大抵誰かのことが話題に上り、そこでは、その人のことを皆で喜んだり、陰で支えたりするどころか、わずかばかりの何かを大げさに誇張したり、批難したり、悪し様に言ったりしています。そういった姿で、心で「思いのやりとり」をする者たちは霊界にはおりません。噂話や陰口は幽界のものだからです。言葉を交わすことで喜びが生まれ、高まるどころか、かげりが増幅され、傷つけるエネルギーが発せられるなどということは、本来あるべきことではないのです。何ひとつ喜びを生み出さず、人の役にも立たないことのために、あなた方が寄り集まり、言葉を交わしている姿は、非常に醜く、悲しむべきものです。恥ずかしいことです。
そういったことを重ねている者ほど、人の心を信ずることができません。人と関わりながら、絶えず、安心できずにいる、それはとても寂しいことです。

人と人が集って言葉を交わす喜びは誰もが知り、また、求めるものです。言葉を交わすことは心を交わすことにほかならないからです。それならば互いの心が本当の喜びで満たされていくような心と言葉の交し合いをして頂きたいと思うのです。
たとえ“間違ったことをしている人”が話題に上っても、その人の不十分さ、至らなさを批判・批難するのではなく、その人が「どうなってくれるように」自分たちは思うのか、「どうなってくれたら、その人も幸せになっていけるのか」を思い、それを言葉で表して頂きたい。今は、その人がそうなっていかないとしても、その人やまわりの者の喜びにつながっていくような心で“人を見て”いって頂きたい。そのエネルギーは知らずのうちに、その人を手助けしていくことになるのです。同時に、そう思い、そう言葉を発したあなた方の心にも、ひとつ光が射し込んだのと同じなのです。人の幸せを願う心は、それだけですでに貢献なのです。大げさに聞こえるかもしれませんが、人の不幸を密かに喜ぶ心と、人の幸せを願う心とを比べてみれば、その違いがいかに大きいかが分かるでしょう。心で思うこと、言葉に出すことは、エネルギー的には行為したことと同等の意味を持つのです。

ここまで読んで、以上のことを「自分のことだ」と思うことができたでしょうか。自分のことを言われている、とはっとした人は、これからは人との話題に気を配り、どういう心で、まなざしで人を見るかについて少しは考え始めていくでしょう。
しかし、「自分のことだ」と思うことなく、ここまですらすらと読んでしまったあなたこそ、このテーマにしっかり向き合うべき人です。このテーマは、特別なことではありません。日々の暮しの至る所に見られることなのです。男性にも女性にもあります。“主婦の井戸端会議”ならではのものではありません。仲間と酒を飲む時、話題になったことを思い出してみてください。家族で食卓を囲んだ時はどうでしょうか。授業参観でよそのお母さんと会った時の話は?子供を遊ばせながら親どうしが話す内容は?友達との電話でのやりとりの時には?
何気なく(本人たちが)交わしている話でも、思い返してみればいくらでもあるはずです。そういうエネルギーが地上には満ちているのです。あなた方と同様の会話・噂話・陰口が全体で交わされることを想像すれば、いかに地上がそのエネルギーに覆われているか分かるでしょう。しかも、同じエネルギーどうしは共鳴・増幅するのですから、そのために今の地上が「真実・事実・ありのまま」というものから遠いのもうなずけます。その渦を作っている者として、そこに意地悪なエネルギーを供給し続けるのか、それとも、その渦から抜け出して、むしろそのかげりを光へと変えていく方に参加していくのか、それはあなたが決めることではあります。しかし、噂話や陰口を話題とし、それに花を咲かせている“自分の姿”を意識した時、寒々しい気持ちになるはずです。そして私どもはあなた方が、気づいてほしいと願っています。それを自覚できるならば、変わっていくことができるからです。
難しいことではありません。誰にでもできる簡単なことです。要は、そうしていくかどうか、それだけのことです。そうしていくことには、何の困難や苦痛が伴うわけでもないでしょう?そうすることで交わされる言葉には喜びが戻り、気持ちがいいはずなのです。
あなたはどちらを選ぶのでしょうか。