霊界通信 「悩み・トラブルを抱えている人たちに」悠々塾ホームへ

 恋愛、婚外恋愛(いわゆる不倫)

愛し愛されるのは大きな喜び。しかしそれが悩み、トラブルになるのには必ず理由があるのです。

人と人が愛し合うことは、最も大きな喜びです。心と心がつながるだけでなく、響き合い、重なり合うことから得られる幸せは、たとえようのないものです。しかしそうでありながら、それを喜びきれない“何か”があるから、人は悩みとしてしまうのです。
それにはさまざまな要因がありますが、しかし共通なのは、そういったなかにあって、いかに相手のことを思いやる心を持つことができるか、ということです。人の心と最も深く触れ合う機会であるはずの“恋愛”なのですから、そこで学ぶべきものは、「相手の気持ちを考えること」ことであり、「相手の心を思いやること」なのです。霊的視点から見れば、地上で起こる全てのことは「学ぶためのもの」なのです。もちろん恋愛も。
置かれている状況が苦しいほど、また、その相手との間に“不調和(トラブル)”があるほど、そこでは何か大事なことを学ばねばならないということなのです。そしてそれらを解消・解決に導いていくのが、「相手のことを思いやる心」なのです。
恋愛が全て、嬉しい、楽しい、相手がいとおしいだけであるならば、男女はもっと心満たされた状態でいられるはずです。しかしそうとはならないのには理由があるのです。
人と人との間には、(人と人とをつなぐものとしては)、「共有する何か」があります。それは「愛情」という「光」だけでなく、何らかの「かげり」もまた同時に存在するのです。
それはほとんどの場合、今よりも前の人生において(前世・過去世などと言います)関わりを持った時に作り出してしまった相互のわだかまりです。それを解消できないまま互いに地上を去り、それぞれに人生を振り返る時、相手に対する自分の至らなさを見ることになります。そしてそれをそのままにしておくことが心苦しく、また申し訳なく、それを喜びに変えたいと願うのです。
霊界という「喜びの世界」でそれに反する「かげり」を抱いたままいることはとても苦しいことだからです。よって次の人生での再会を約束し、両者にとっての解消すべきテーマ(カルマと言います)を確認し、それを越えた喜びを獲得することを約束します。(一人の人が一人とのみ約束するのではなく、次の人生で出会う人、関わる人全てがそういった約束に基づいています。もちろん、全ての人との間にカルマのみがあるのではなく、援助の約束だったり、協力の約束だったりとその内容は様々です。)再生にあたっては霊界でのことを記憶としてはとどめておけませんから、たとえ両者が出会ったとしても、今回の人生でのお互いのカルマについては知るよしもありません。

目的があるのですから、出会うべき人とはどんな形をとっても出会うのです。
あなた方はそれを「偶然が重なって」と言いますが、決してそうではありません。
恋愛関係にありながら、互いにどうしても違和感がぬぐえなかったり、他の人間が絡んだり、「幸せだ」と実感できなかったり。そういう時に、まず思い出してほしいのは、この出会いは決して意味のないものではく、お互いが相手を思いやっていくためのものだ、ということです。恋愛という、極めて個人的な感情のなかにあって、「自分の気持ち」だけでなく、「相手の気持ち」をしっかりと見ていくこと、そのことをぜひ思い出して頂きたい。

出会った者どうしが出会えた喜びと、共に生きる喜びのなかにいられるということがどんなに幸せなことであるか、それを感じられれた者どうしは、本当の意味で「パートナー」なのです。(今はまだそうは思えなくとも、互いが変わっていくことで、その喜びにめざめ直す者どうしもいます。)その場合は、今回の人生で“共に歩みながら”人に対して何らかの貢献(それを“働き”“役割”“使命”と言います)をしていくこと、それによって二人がさらに喜びを共鳴させていくことが、出会いの目的となります。
互いの間にカルマがあって、その解消が目的の場合は、カルマの解消によって二人はそれぞれの道を歩むことになりますが、二人が「パートナー」である場合は、二度と離れることはありません。共に生きること、それを全うすることが人生の目的のひとつなのですから。

本来、喜びであるはずの恋愛を悩みとしなければならないのはとても残念なことです。しかし、そこで大切なもの、「人としての思いやり」を見失いさえしなければ、必ず導かれます。あなたにふさわしい人、あなたと全てを響き合わせることのできる人と必ず出会うことができるのです。

婚姻関係を結ぶということ、それを形として示すということは地上ならではのものです。本来、心と心のつながりや、愛し合うということそのものが、二人の心が共にあるということに重なるはずなのです。しかしそこで“形”として表すことで安定や安心を得、また意思の表明を行うのが地上界なのです。(もちろん、全ての地上の者がということではなく)
一方、または双方が、婚姻関係を持ちながらも、その配偶者以外の者と愛情を交わすこと、肉体関係を結ぶことを、いわゆる“不倫”とあなた方は言っています。しかしここにも、必ず“約束”はあるのです。それにはふたつのパターンがあります。
ひとつは、本来、情を交わすべき相手ではなかったことをよりはっきりと知らねばならない場合です。これは、自分たちがそういった関係になることによって、いかに多くの者が心を痛め(自分たち自身も含めて)あるいは、いかに多くの者を傷つけることになるのかに思い至らねばならなかったということです。そして、それぞれの立場と状況を思いやりながら、別の道を歩むことで互いの幸せを願う、というものです。
もうひとつは、「形」や「定められた規範」というものを越えてでも、本来結び合う者どうしは出会い、心を重ねていく場合です。世間的な見方や向けられる視線、そしてその時の配偶者の存在(場合によっては子供の存在)という、心を貫くにあたって、それを貫き通し難いさまざまな要因を越えて、ということです。その場合、それぞれの配偶者との間にもカルマがあり、それはまた一方で解消しなければならない問題です。当然、そこに関わってくる人たちの気持ちを大切にしながらも、この場合の二人であるならば、本来の「共に生きること」を取り戻すために心を遣っていくこと・行動していくことが共通の目的となります。前述したように、こういった場合には、「ただ好きだから」という感情のみの理由は通用しません。必ずその二人の間には「貢献」という目的があり、それを成しながら、心も体も行動も響き合わせていくのが前提としてあるのです。

これまで人の心の表明を、「形」として示すために、そのひとつとして婚姻というものがありました。恋愛とは違って、それが社会の基本的な最小単位として認知されている以上、それを揺らす、あるいは逆らうようなものが“社会的に”認知されないのは今の時点では自然な成り行きです。
しかし、「形ばかり」の状態にあるからこそ「心」「愛情」「喜び」を求めてしまう人がいるのもまた自然なことです。「形」のなかにいかに真実の「心」がこもっているのか、それによって「形」は「本物のもの」となるのです。
これから先のあなた方が、心からの「愛情の交流」に喜びを実感し、心の深いつながりを築くことができるならば婚姻という「形」をあえて求めなくとも構わなくなるでしょう。そのころには人々は「愛し合う」ということ、「愛し合っている」ということを表現することに抵抗や躊躇を持たなくなっているはずです。よって、恋愛に近いもので楽しもうとしたり、「恋愛だと思いたい」というかげりから「恋愛ごっこ」のようなもので自分を満たそうとする寂しさを持つ者もいなくなるでしょう。
「愛し愛されることの喜び」が広がっていくということは、傷つけ合ったり、傷ついたり、というかげりが次第になくなっていくということでもあるからです。<br>本当に愛し愛される喜びを知る者たちが表現する、おおらかな喜び、そのエネルギーが人々全体に影響を及ぼしていく、つまり、「本当の恋愛」を求める気持ち、「自分もそんなふうに喜びたい」と求める人々が増えていくということなのです。