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 援助交際

心にも体にも無関心であること。心と体とが温もりを求めていること。
その両者の間で子供の心は揺れるのです。

“肉体”は人の心を行為・行動で表現するために与えられているものです。
あなたが援助交際と呼ばれているものをしているのだとすれば、それはどんな“心”を表現しているのでしょうか。あなた自身にも分からない心の奥からの声に耳を傾けてみましょう。
「私は本当に愛されて育てられたのか。大事に思われているんだろうか。私のことが大事だと、誰も言ってくれない。確かめさせてはくれない。ずっと寂しかった。いつも寂しかった。実感させてもらえなかったから。私はどのくらい大事なの?私はどのくらい愛されているの?」
あなた方は今まで、何かで強い“不足感”を持つことなく育ってきました。どうしても必要なのになかなか手に入らない物があって苦しかったり、どうしても節約や倹約をしなければならない子供時代を過ごしたわけではありません。それは、あなた方の両親が、「子供たちには十分与えたい。」と思ってきたからこそです。しかしそこではあなた方の両親も、物や金銭に目がいきすぎ、「心」を最優先に位置づけなかった傾向はありました。親が子に与えるべき最も大切なものは、全面的な愛情です。心も体も丸ごと受けとめ、慈しむ心です。それを心と体とに注がれながら子供が育てば、大切にされてきた心と体とを自らも大切にできるのです。残念なことに、今の社会全体は、子供をそうやって育てられる状況にはなく、また、親たち自身もそうはできないような状況に置かれているのです。(彼らだけのせいではない、ということです)
その意味で、あなた方が抱え続けてきた“寂しさ”や“満たされなさ”は、社会全体が生み出したものだとも言えるのです。しかしここで思い出してください。どうしてあなた方の両親が「子供には十分与えたい」と思ったのか。それはあなた方を愛し、大切に思い、苦しさや辛さを味わわせたくないと思うからなのです。ただ、その表現が、思いっきり抱きしめたり、大切だという言葉にしたりという形でなく、物や金銭という手段に変わってしまったということなのです。
決して愛情がないわけではありません。本来伝えるべき形で伝えることができなかっただけです。あなた方がずっと欲しかった形で与えてくれなかっただけです。
そして大人たちは、自分たちがそうできなかったこと(心や体で愛情を表現し、伝えきれなかったこと)をどこかで知っているから、それをうしろめたく感じているから、何も言えないのです。自分たちの持っている愛情に絶対の自信を持てないから何も言えないのです。

与えられた肉体を“提供”することで金銭を得ること、それは肉体本来のあり方とは全く違っていますし、それによって得られるのは“喜び”ではありません。肉体は健やかな“喜び”を求めて動き、使われていくべきもの。そこに「心」が介在しなければ健やかな喜びではないのです。

あなたが金銭によって年若い少女たちの肉体を“買って”いるのだとすれば、今すぐそれを恥じ、ただちにやめることです。肉体の喜び自体は否定されるべきものではありませんが、それは“対象”によるのです。
彼女たちはまだ“子供”です。金銭によって、性愛の対象とするべき者ではありません。
あなたが自分に娘があると仮定し、同様のことをしている者と娘とが関わっているとすれば、その人に対して抱く思いは想像がつくはずです。人としての心があるならば。
彼女らは自分たちの寂しさをどうしようもできずにいるだけなのです。本当のところ、心は叫び声を上げているのです。あなたのしていることは、その弱味につけ込んで若い性をむさぼっているということなのです。

自分の子供が援助交際をしていると知って、親ならば大きなショックを受けるはずです。しかしそこで気づいてほしいのは、彼女の“本当に求めていたもの”です。厳しい言葉や規制、拘束によっては彼女たちの心も行動も変わりません。何に満たされず、何を求めていたのか、冒頭の部分から読み返してください。そして今からでも、彼女たちを育て直すつもりで接してください。いくつになっても子供は子供なのです。親として注ぎきれなかった愛情をこの機会に、彼女たちに分かるように、実感できるように示してあげてください。

性的な交わりというものは、本来、男女の愛情の最も具体的な表現であり、また、本当に心を重ね合った者どうしの間で持たれるべきものなのです。
肉体がその人の心を表現し、心の喜びを表現していくものだとすれば、愛し愛される喜びが肉体の交わりという喜びの形となるのです。
地上に生まれたあなた方は、そういった「本来あるべき姿」を、ともすると見失いがちです。本当はそうであることを知りながらです。
本来、人としてあるべき姿と逆行することを重ねるのは、大きな過ちなのです。自らの肉体を、あるべき姿と違う方へと使っていくことは与えられた肉体を、粗末に扱っているとしか言いようがありません。
人が持つ肉体は、“自分のもの”ではないのです。心を(心の喜びを)表現するために“与えられているもの”なのです。心の喜びに沿って使い、大切にしてこそのものです。自分で自分を傷つける、とはそういうことなのです。他人の体を傷つけるのと同じことを自らの肉体にしているのです。「誰にも迷惑をかけていない」のではありません。“自分のものでない肉体”を痛めつけていることが、“迷惑をかけていない”ということにはなりません。まして与えられた肉体は両親の愛情と喜びの結果として授かったもの。それを金銭に換えることなどできません。
本当に心から愛し合う人と出会い、その喜びを確かめ合うためにもあなたの肉体はあるのだということをよくよく考えてください。