同性愛
自分はおかしいのではないかなどと思うことはありません。それはあなたの“魂の記憶”のためなのです。
あなたが自分と同じ性を持つ者に対して(異性に比べて)より惹かれ、愛情を感じ、また、性的欲求を持つとして、それを“罪だ”と思うことはありません。また“異常だ”と思うこともありません。そこには“理由”があるからです。
あなたは今の人生を生きる前に、幾度もこの地上で生きた経験があります。それは、様々な年代、地域、状況を生き、そして“性”も、その時々で違っていたのです。
今回の人生では、それらの人生で積み重ねてしまったカルマ(その時々で抱いた心のかげり、犯した過ち、不十分さ・・・等)を解消し、それにまさる喜びの心を抱いて生きることが目標です。そのために、生まれる時代や国、両親、環境、そして“性”を選択します。それは、今回の目標を達成するのにふさわしい状況設定なのです。
成長する過程において自分と同じ性の者に心惹かれるというのは、実はそれ以前の人生での性(今とは逆の性:現在男性ならばかつて女性、現在女性ならばかつて男性)の記憶を色濃くその意識に残しているということなのです。さらにもうひとつの場合として、かつての人生で異性へ強い違和感をもち、その反映として同性に惹かれるということもあります。
前者の場合は、肉体的にも現在の“性”への違和感をどうしても拭うことができないことが多いのです。
後者の場合は、かつての人生で非常に深い“性的な痛手”を異性に負わされたということなのです。
いずれの場合も、異性より同性に惹かれてしまう気持ち、また自分の性に違和感を拭えないことは、自分ではどうしようもないことです。
男と女、つまり異なる性の者どうしが愛し合い、心と体とを重ねることが“一般的”ではあります。しかし、この今の人生だけでなく、何度となく繰り返されたいくつもの人生の連なりのなかで見てみれば、その時の“性”が求める相手に惹かれたとしても、それは不自然なことではないのです。時を越え、また性別という区切りを越えてまで、その人に惹かれなければならない理由がそこにはあるからです。
しかしながら、単に性愛の楽しみのため、欲求の満足のために「同性の相手を求める」という点については、上述のようには解釈できません。それもまた、“性”にまつわるカルマがあるのですが、“心”が伴わない場合には、それは改められるべきものと思ってください。
あなた方人類は、これまでの歩みのなかで、“性”にまつわって、すべきではない“楽しみ方”を幾度も重ねてきました。交わるべきでない相手との交わりは、霊的に見ても、地上的な目で見てもやはり“過ち”だったということなのです。
それらの数々の過ちはカルマとして(解消すべきものとして)今のあなた方人類のうえに表れています。そのなかのひとつが、「“単に”快楽を求めるためだけの同性との交わり」なのです。
私どもは、何もかもを否定したりは致しません。霊的視点からみて、そこに“理由”があるかないかをその判断基準とするのみです。“人としてあるべき姿”というのは、いかなる心でそうするのか(動機)を基準とするものだからです。
同じ“同性愛”ということをとっても、その“動機”次第で話は違ってくるのです。しかしいかなる情報を受け取っても、そこから何を選び、どうするかは本人次第です。
人の心は尊重されるべきものであり、人を愛することは自然の欲求です。“同じ性”ということを、それを阻むことの理由にはできないのです。人と人とが愛し合うこと、それは何ものにもまさる喜びです。そのことについてはどうぞ自信を持って頂いてよろしいのです。