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 酒、飲酒

酒は本来、心を解放してくれるもの。
頼るのではなく、楽しむものへと変えていくことはできるのです。

酒とは本来、喜びや楽しさを広げる手助けをしてくれるもの。心を解放し、和やかさをもたらしてくれるもの。その場のその人たちの気持ちが“嬉しさ”にあれば。
しかし逆に、嘆きや不満・愚痴を伴いながらの場合は、それらの心のかげりを増幅させる作用をしてしまいます。
“酒”によって、理性の“タガ”がゆるみ、感情の“枠”がはずれるからこそ、喜びや楽しさは広がり、同様にかげりも増幅されるのです。普段は抑えている感情までも出てしまうのはそのためですし、逆に、“考えられない”状態になるのは、理性がコントロールを失うからです。
喜びや楽しさを広げ、分かち合う時に飲まれるのであれば、酒は人々に喜びをもたらす補助をするわけですから、それによって肉体に好ましくない影響を及ぼすことにはなりません。しかし、嘆きや愚痴、いやなことを“忘れるため”に飲む酒は、その人の心にも体にも“健やかさ”をもたらしはしないのです。

理性の“タガ”がはずれるということは、「考えなくていい」状態、「向き合わなくていい」状態を作り出します。それは現状から逃げたいと思っている人や、忘れたいことがある人、どうしようもない気持ちを抱えている人にとっては好都合なのです。だからそれに頼り、その“分からなくなる”状態のなかにとどまることで、救いを見出そうとしてしまうのです。たとえそこに逃げ込んでも、現状は何ら変わるはずはなく、むしろ悪化するというのにです。
こういった状態にある人にとって何より必要なのは「自分の気持ちを分かってくれようとする人がいる」ということです。
また、これを手にしているあなたが、もし、こういった(酒を手放せない)状態に苦しんでいるのであるとすれば、まず、自分の心の内側を言葉で伝えられる相手を求めるということです。それが家族のなかに得られないとしても、必ず誰かしらがいるのです。「自分の気持ちを分かってくれる人」を強く求めれば、必ず配剤されます。それは、逃げるためでなく、今の状況を何とかして変えていき、酒に頼らず、酒に逃げ場を求めず、健やかな心と体とを取り戻したいという求めに基づくものの場合、です。

家族の誰かが酒を手放せず、そのことで家族全体が不調和をきたしているのであれば、その人を家族全体で改めて理解していこうという協力と意志は不可欠です。受け入れられ、認められ、そして理解されることなしに、「逃げること」からは離れられないからです。その人は何が苦しかったのか。何を知ってほしかったのか。寂しさを抱えてはいなかったか。満たされなさを抱いてはいなかったか。もっと話したかったのではないか。-------あらゆる角度からその人の心を考えてみれば、何かしら必ず、“考えたくない”“思いたくない”“どうしようもない”ものに行き着くのです。それが分かれば、皆でそこを満たしていけるのです。社会が、家庭が、仕事場が、今の時代は誰にとっても苦しいものになっています。そのなかで心をかげらせてしまうのは当然のこと。
その心に対するいたわりをもって、再びその人と関わり直していくのです。
それはその人の再生であり、家族の再生であると言えます。

心をかげらせると、その“かげり”に共鳴する外側からのエネルギーの影響を受けることはよくあります。それを憑依と言います。これは、すでに他界しながらも本来の霊界には戻れず、地上近くにいる魂たちの心のかげりと、地上にいる者の心のかげりが共鳴した時に、両者が引き寄せあってしまうことです。
そこでは、憑依霊の影響が、地上の者に及んでしまうのです。その憑依霊が“飲酒”を強く嗜好する者の時は、そのまま地上の者も強い“飲酒”の嗜好を持つようになります。いくら飲んでも満足できないほどに、です。この場合は、上述したような、まわりの者からの理解のエネルギーのみではなかなか酒から離れられません。共鳴している霊を本来の霊界へ送る必要があるからです。それは、見えない癒しのエネルギーをその霊に注ぐことによって可能ですし、その霊をどこかに追い払うのではなく(いわゆる“おはらい”をするということではなく)本来戻るべきところへ送るのですから、その霊にとっても喜びは大きいのです。もちろん憑依のはずれたその人は、その霊の“嗜好”の影響がはずれるのですから、酒を手放すことができます。ただ、その人が抱いていた“かげり”の心をそのままにしておいてはなりません。憑依をはずしたうえで、まわりの者と、癒しのエネルギーを注ぐ者とのフォローは必要です。