何となくおもしろくない
希望がないから。夢なんて持てないから。
大人も子供も社会も閉塞(へいそく)感のなかにいる。
だけどそれを打ち破ろう。
生きていることが楽しい、嬉しいと思えるのはどうしてか。それは自分の“目指すもの”、自分が“求めるもの”に向かって精一杯のことをするから。目標・目的・欲求に向かって力を尽くすから。
けれども今は何を目指し、何を求めていいのかが分からない人がほとんどであり、それを示し、教えてくれる者もないのです。そういったなかにあって、この先の“希望”を抱くことのできる人がどれくらいいるのでしょうか。現状を見れば希望にはつながらないようなことばかりがまわりにはあるというのに。目標も目的も、そしてもちろん“希望も”見出せなければ、気持ちの高まりがあるはずはなく、当然おもしろいはずがないのです。多くの人が“何となく”おもしろくないという気持ちでいても、それはむしろ当たり前のこと。しかしそういった気持ちを持つ人々がほとんどを占める社会が、それを変えていけるかと言えば、そうはなりません。そのままでは人々の心はどちらにも動いていかないからです。
今は“能力”“金銭”“会社名”“学校名”というものでその人が評価されてしまうことが多いのであり、その人の心そのものを認めてもらえる機会にはなかなか恵まれません。今の社会の価値基準からすれば、評価され、認められ、喜びや結果を手にしていけるのはごく一部の人々になります。人々の善良さや誠実さ、優しさや思いやり、というものは評価の対象外にされています。このままで“心を持っている”人が幸せを実感できるはずがないのです。その人の“心”こそが認められ、尊重される世になっていかねばなりません。なぜなら、このあなた方の生きる地上界は、形あるものは、あくまでも“心”を表現する手段のひとつにすぎないからです。“心”こそ優先されるべきものだからです。
あなたのまわりを見てみれば、たとえ会社で“うだつ”があがらないと言われていてもひたすら誠実な人、厳しいことを言うしか仕方ないのに実は心根(こころね)の非常に優しい人、逆に、仕事はよくできながら人に対して冷たい人、と、「さまざまな心」があります。その“心”のありようは、社会的な価値基準とは違っていることもあなた方は知っています。今の社会のあり方そのものが、「人の心」とかみ合ったものではないからです。むしろ、人の心を縮めさせ、萎えさせていく仕組みなのです。
人はその人それぞれに輝きをもっています。どんな人の心にも、それがあるのです。その輝きとは、向けられる人に喜びをもたらしてくれるものです。優しさであり、思いやりであり、正直さであり、誠実さです。本来はその輝きをいかしたことを、いかすような、人との関わり方を“働き”とすべきなのです。人に喜びをもたらすことができることとは、つまり、人の役に立つことができるということなのです。それぞれの輝きを出し合うことが補い合うことであり、助け合うことであり、協調することなのです。そして、何に自分を役立てるか、とは、その人が何を目的として生きるのか、何を目指し、何を求めて生きるのかということと重なるのです。つまり、その人のなかにある輝きを認められ、その力を出していくことが、その人の生きる喜びとなるのであり、そうやって生きていくことがその人にとっての幸せだということです。さまざまな条件や規制に縛られず、その人の心のエネルギー(輝きという要素)を出していくこと、それは今の社会のあり方とは全く違っていますし、そこでは人々の間に格差や優劣はなく、序列もありません。互いに持てるものを出し合う、いかし合う、補い合う、ということがあるのみです。
今の社会での閉塞感を打ち破るのは、そういった「ありのままの心で生きること。誰もが喜びをもって生きること」を求めていくあなた方の心のエネルギーの共鳴なのです。そういう社会を求める気持ちの共鳴が、今を変えていく力を生み出すのですし、目指すものへ心を向けるから、そこに“希望”が生まれるのです。どうしようもないと思える今の社会にあっても、“希望”はあるのです。それは人の心のなかにある、喜びを求める意志です。誰もが求める「いきいき生きたい」「幸せになりたい」と願う心です。それがある限り、目指すものの実現は可能です。誰かがひとりでそれをしていくのではなく、ひとりひとりのなかにある「願い」や「欲求」を響き合わせていくのですから。