大事な人と死別した人に
死は永遠の別れではありません。
生きる場は違っても、結び合った心の絆が絶たれることはないのです。
“死”とは、その人の生命が終わることではありません。地上で生きるための、肉体という器はなくなりますが、生命の本質である魂は、次元を変えて生き続けています。あなたが直接見たり聞いたり感じたりできなくとも、その人の存在は依然として“ある”のです。言ってみれば、とても遠いところに離れただけのことです。そして、あなたには意識できなくとも、互いの心はつながったままです。あなたの思いはその人に届いていますし、その人もあなたに向けて愛念を送ってくれています。場合によっては、すぐ側まで来ることさえできるのです。
人にはそれぞれ“人生のプラン”があります。目的と課題をもって地上へ赴き、人と出会い、関わり、そして地上を去る。それは予(あらかじ)め定めて来たことですから、たとえ不慮の事故であろうと、病によってであろうと、その“死”は免(まねが)れないことだったのです。誰のせいでもありません。一定期間に、一定のことを学び、あるいは実践し、霊界へまた戻るという繰り返しをあなた方はしているのです。ですから、その人が地上を去ったことは“可哀想なこと”ではないのです。むしろ、地上でのさまざまな苦しさや辛さ、痛み、悲しみ、思うようにならなかったこと・・・・というようなものからは解放されるのですし、自分本来の心に戻ることができるのですから、本人にとってはとても幸せな“移行”なのです。
しかし、地上に残された者たちの嘆き悲しみが強く、後悔や、とらわれの気持ちが深ければ、その心から発せられるエネルギーをその人は感じ、苦しくなるのです。本人は重たいものを脱いで、次々と喜びの世界へと進んで行きたいのに、つながった心を通じて、地上の者からの“思い”が送られてくれば、晴れ晴れとした気持ちにはなれません。
その人のことを思うのであれば、悔やんだり惜しんだりするよりも、その人らしく新しい世界で生きてくれることを願ってあげてください。この先もあなた方のつながりは続くのですし、本当に心を結び合った者どうしであるならば、あなたが地上を去った後、再会できるのです。(しかし、後を追って自ら命を断つということをしてはなりません。与えられた生命を全うしてこそ、その人が喜んで迎えてくれるのです。)
あなた方はその人たちの今を直接知ることはできません。しかし、どうしてもその人の今を知りたかったり、その人に聞きたかったことが残っていたり、思いを伝えたいと思ったりするのであれば、今、あなた方が目にしているような“メッセージ”という形によってその情報を得ることはできます。しかし、直接話をするということは難しいかもしれません。
なぜなら、その人が、地上を離れて学びを進め、自らの意志や情報を、受信する者たちとの共鳴状態のなかで伝えるに足りるだけの力量を備えている、という場合は少ないからです。
しかし、どの霊(魂)にも指導霊・守護霊はいるのであって、その者たちを通じて、“その人”の今の状態を受信することは可能だということなのです。何を思い、何を目指し、どういう環境にあるのか、地上に残してきた者の心に求めることは何か・・・といったようなことが。
ここで大事なのは、もしもその人がいまだ本来向かうべき霊界へと向かうことができていない場合もある、ということです。その時は、それを驚き悲しむのでなく、また恐れるのでもなく、その人へ向けての愛念をひたすら送ることをして頂きたいのです。もちろんメッセージの受信とともに、そういった状態のその人を癒すためのエネルギーを、この人たちは注ぐことはできます。(その必要があれば告げられるでしょう)それは、地上にいる者に癒しのエネルギーを注ぐことと何ら変わりありません。特別な儀式をすることでもありません。癒していくエネルギーとは愛情や慈しみの心から発されるものだからです。