霊界通信 「悩み・トラブルを抱えている人たちに」悠々塾ホームへ

 偽り・欺き・隠し事

そのことが、いかに自分と相手の心と魂を傷つけるものか。
人としての正しさに立ち返るべき時なのです。

偽り、欺き、隠し事を抱えている人は大勢います。しかしそれを“悩み”として持つあなたは、本当は何が正しいか、どうするべきかを知っているということです。ただそこでは、「真実に向き合えない自分」の方が強いために、抱えているものを明らかにするわけにはいかないのです。
偽り、欺き、隠し事を抱え込んでいたとしても、それはいつか必ず明らかになることです。(たとえ地上にいる間にそうならなかったとしても、真実の世界である“霊界”においては隠しおおすことなどできません。)本来、地上で作ってしまったかげりは地上で解消すべきなのです。偽り、欺き、隠し事があれば真実を明らかにすることがその解消であり、加えて、心から詫びることが求められます。持ち続けた“かげり”を明らかにするだけでなく、それに自らが向き合い、“光”に変えていくことの一歩目が詫びることなのです。それは過ちを認めるということであり、至らなかったことを知るということだからです。そのことがいかに人の心を傷つけたことなのかを知れば、そういう自分を詫びずにはいられないということなのです。

地上にいる間にそれができず、霊界において自らの偽り、欺き、隠し事に向き合う時は、それは苦しいものです。心そのもので生きる世界であるからこそ、その「かげりを抱いていた自分」を見ることは情けなく恥ずかしく、「どうして真実を明らかにしなかったのか」という思いや「申し訳なさ」で一杯になります。つまり、地上で隠し通せば終わりではなく、地上を去ってからは、地上よりもさらに強烈な真実の光に照らされるということなのです。だからこそ、いつかは必ず明らかになる、と伝えているのです。地上で真実と向き合い、過ちを埋め合わせていくことこそ、喜びにつながることであり、「かげりを光に変えた」ということになるのです。霊界に戻ってから、「どうして自分はそうしなかったのか」と思うことほど苦しいことはありません。あなた方は真実で関わり合って喜び合うために共に地上にいるのです。偽り、欺き、隠し事のうえに本当の喜びや幸せは築けませんし、もたらされません。それを何より分かっているのはあなた自身の心です。ずっと安心できず、ずっと心に重いものが存在するからです。
それを解消するために勇気を出すのです。真実を明らかにし、心から詫びることで、相手は分かってくれるはず。もしもその時、分かってもらえなかったとしても、それはいつか必ず分かるもの。それだけでなく、真実を明らかにすることでそれまで重ね続けた“かげり”の連鎖のひとつが断ち切られるようになる、ということなのです。少なくとも偽ることや欺くこと、隠し事をすることの罪を重ねなくなるのです。相手に対しても自分の心に対しても。
たとえどんな言葉を向けられてもそれは受けとめるしかありません。分かりながら偽り、欺き、隠し事を抱き続けたことは埋め合わせをしなければならないからです。自分のしてきたことを振り返れば納得はいくはず。しかしそれもいつまでも続くものではありません。そのことにあなたが心をかげらさず、常に“真実”を見続けること、それが大切なのです。

あなたが偽り、欺き、隠し事を持ちながら、そのことにあまり心を悩ませずにいるのだとすれば、それはまず、そのこと自体が問題です。何が人として正しいことなのか、人はどうするべきなのかという目がくもっているからです。
本当は見えるはずのことが見えていない、というのは大変なことです。すべきでないことを「すべきでない」と分からなければ、同じことを何度も繰り返し、また、さらに過ちは重ねられていくことでしょう。
あなたがもし逆の立場だったらどうか、ということを考えてみてください。本当のことを知らされず、嘘によってだまされ、大切なことを隠されたままだとしたら・・・。自分のまわりに「本当のこと」などなく、相手の都合や相手の気持ちで話が変わっていったら・・・。一体、何が本当で何が嘘なのかも分からないなかで生きなければならないとしたら・・・・。
今のあなたにとって大事なのは真実よりもその時々の自分の都合や自分の気持ちなのです。それに関わる人に対して自分がどういうことをしているのかも分からないほど。「自分がされていやなことは相手にもしない」「自分がしてもらって嬉しいことを、相手にもしていく」これは人との関わりの基本です。ここに偽り、欺き、隠し事、そして真実をあてはめることもできます。

それでも、どうしても偽り、欺き、隠し事に対して「人として正しくないこと」との認識をもつこともできないとすれば、せめて心には留めておいてください。きっと、実感させてもらえる時がきますし、そういう出来事があります。それを実感させてもらえて初めてあなたは気づくでしょう。このメッセージにつながったということ自体がその機会の始まりなのですから。そこから、「偽り、欺き、隠し事」を持つ自分に向き合い始めることになります。

もしもあなたが地上にいる間にそういった機会を逃してしまえば、それは地上を去ってからも続くことになります。
偽り、欺き、隠し事を「人として正しくないこと」と思えなければ、「真実」の世界である本来の霊界に向かうことはできません。自分の都合と感情とでそれを繰り返す者どうしのかげりが共鳴して作り出す世界へと引き寄せられていきます。そこには真実はないのですから、互いの嘘やかけひきのみで形づくられた世界です。ですから自分の都合や感情をそれぞれが通そうとするために、逆にそれがかなわないのです。だまし合い、さぐり合いが果てなく続くのみです。そこに救いはありません。真実の光の届かない暗いところで、繰り広げられる人との関わりは、何の喜びともつながらない世界です。
また、自分の偽り、欺き、隠し事に気づきながらも、どうしても自分の都合と感情を優先させることを手放せなかった者は、同様に、偽り、欺き、隠し事を繰り返さざるを得ない世界へと引き寄せられていきます。さまざまな状況が次々と向けられ、その場その場で偽ることをせざるを得ない世界です。そこにも真実はありません。偽りを知りつつそれを繰り返す自分を見続けるのです。自分の愚かさや、情けなさに嫌気がさしつつもやめさせてもらえない、そういう世界です。「本当は自分はこうではなかった。ここから抜け出したい。もうこんなことはやめたい」と心の限り叫ぶまで、それは続きます。
このふたつの世界では要するに“地獄”ということです。舌を抜かれるのではなく、ずっと偽り、欺き、隠し事という暗い世界で果てなくそれを繰り返す、ということなのです。その苦しさをあなた方に想像することはできないでしょう。なぜなら、あなたのまわりには本当のことや真実を大切にする人がいるからです。その人たちの正直さや素直さという光があるからこそ今のあなたはまだ救われているのです。そして本来人は皆、真実に生きるべき者たちなのです。それは「人の心、人の魂そのものが真実という光の方を向き、それを求めるものなのである」という法則があるからであり、それはまた、霊界という魂の世界が、真実という光のなかに存在するからであり、「真実」そのものが「法則」だからなのです。

いつかは必ず、ということは、たとえ今そうではなくともいずれそうなるということです。今、分かってもらえなくとも、今、伝わらなくとも、今、そうならなくとも、ということです。
たとえ“地獄”にいる人にもいずれは救いはあります。魂は本来、光の方を向き光を求めるものという法則があるからです。
しかし、初めに伝えてあるように、地上での過ちは地上にて解消するに越したことはありません。いずれそうなる、というのは今から逃げるための理由ではないのです。あくまでも“望み”や“希望”がなくなることはない、救いは必ずあるということなのです。
地上に今を生きるあなた方が、“今”を喜びとするために、真実を手にし、真実によって関わるようになりますように。