体の“こり”、痛み
心と体のメカニズムを知れば、どちらも必ず癒せます。
たとえどんなに強い痛みであったとしても。
体の不調を考える時、その人の心の状態を抜きにしての癒しはあり得ません。なぜなら心と体とはつながり合い、心の状態を形にしてみせてくれるのが体の状態なのですから。
そこから考えると、体の“こり”は、何かの緊張があったり、気持ちの硬さ、不自由さがあったり、それを解消できずにいる場合です。もちろん、“血行が悪くなっているから”という言い方もしますが、そうなるのにも理由があって、気持ちのなめらかさが失われていたり、心の柔軟さが損なわれていたり(つまり、緊張状態)ということなのですから、意味は全く同じです。何かの理由で気持ちを硬くしなければならないような状況に陥ると、そこでは、それによって生じた心の“おり”すら排出しにくくなります。当然それは自分の心にためこまれて、固まるのですから、肉体には“硬さ”として反映されます。限界がくれば、そこから派生するさらなる不調、つまり痛みや吐き気として、別の形によってその滞りを少しでも外へ逃がそうと体は動くしかありません。たまったものをそこにとどめておくことはその肉体にとって非常に苦しいことだからです。
体にふれてもらい、あるいは温めることによって“こり”が和らぐのは、それらのことによって“気持ち”が柔らかさを取り戻すからです。けれども、それによってもなかなかほぐれないものがあるとすれば、その人の気持ちのところで今ひとつ“解消しきれないもの”“解き放てない緊張”があるということです。それは、物理的なことではなかなかうまくはいきません。その人が、何かから自分を守ろうとすることや、自分に対して「こうあらねばならない」と課すこと、あるいは、「こう思われたくない」というものなどから解放されることが癒されていくために必要です。
心を硬くする要因は人によってさまざまです。しかし、これらのことが“こり”を訴える人に共通のことだと言えます。ありのままの自分がもうすでに十分受け入れられているのだということを知り、「それでいいのだ。」と思えれば、守ることや緊張からの解放に至るでしょう。
もしもそういった人を“癒したい”と思うのであれば、あなたが、その人の心を受けとめてあげようと思うことです。何もかも引き受けるという意味でなく、その人が「自分の気持ちを分かってもらえる」という安心を持ってもらえるという点において受けとめるのです。「安心」とは「緊張」と逆の心の状態なのですから、その気持ちを抱くことが、解放のきっかけとなっていくのです。
“こり”は肉体に形として現れますが、“痛み”はそうではありません。そこで最も問題となることが、「痛んでいる本人にしか分からない」ということです。つまり、「分かってもらえない」こと、それが“鍵”となるのです。“痛み”は最も強い信号です。肉体の訴えのなかで、本人にとってもまわりにとっても。なぜその信号を発さねばならなかったのか。それは、その人の“分かってもらいたいもの”があったということなのです。それがその人自身に、意識できているかいないかは別として、“痛む”そのことで、まわりの人に、「心を自分に近づけてほしい」「心を自分に向けてほしい」「そして分かってほしい」のです。もちろん、その人それぞれに「分かってほしい気持ち」は違います。けれども共通の願いは「分かろうとしてほしい」ということです。痛んでいる自分に触れ、あるいは撫(な)で、心と体とで自分に気持ちが向けられていることを実感したいのです。それまでに自分の口で言えたなら、“痛み”によって体で訴えることはなかったのです。でも、その人の言えない苦しさ、気持ちを表現することを抑えてきた辛さ、それが“痛み”という自らを苛む形として表れているのです。「自分はこんなにつらいのだ」と。
まわりに対する気持ちだけが原因なのではありません。もうひとつ、肉体からその人への訴えである場合もあります。もっと肉体そのものに心を向けてほしい、いたわってほしい、と。その場合、その本人が、痛んだことで肉体に注意を払い、大切に扱うことでその訴えは聞き入れられたのですから、それで解消されるはずです。
しかし、人の心が複雑であるのを反映して、“痛み”も、要因がいくつも絡んでいることはあります。ひとつのことが解消されたからといって、全ての痛みが治まるわけではありません。薬等によっても抑えられない痛みを抱えている場合には、その絡み合った心の要素をほぐし、癒していくものとして、見えないエネルギーによる治療を勧めます。心の要素を癒すのは心のエネルギーだからです。
肉体だけに作用させるために、どんどん強い薬を使うことだけが“痛み”を和らげる方法ではない、ということです。
“痛み”のもとになっている、それぞれの人の「心」、そこに触れ、そこから肉体に至るまを癒していくものとして、癒しのエネルギーはあるのです。
そしてそれは、特別な人のみに与えられている力ではないことを、ここに加えておきます。