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 いわゆる痴呆症について

なぜそうなるのか。まわりの者はどう関わっていけばいいのか。
治る可能性はあるのか。“心”を視点に答えます。

《諸症状にみる心の状態》
いわゆる痴呆症にはいくつものタイプがありますが、共通することは「今の自分、今までの自分ではいられない。今の自分、今までの自分でい続けることが苦しい。」という心の状態です。これは“共通の”大枠ですから、微妙な部分での各人の“違い”はあっても、最も深いところのものはこれになります。
心がそういう状態であるということは、「今の自分、今までの自分ではなくなること」を求める、ということになります。今の、今までの自分でなくなっていくこととは、「それを断ち切ること、崩すこと、忘れること、別のものにしていくこと」ということです。その、心の強い求めが自らの体に引き起こすのが痴呆といわれるものの諸症状なのです。

それまでの自分でなくなるために忘れるという方法をとる人は、記憶障害を引き起こします。これらは“無意識”のうちに行われる心の作用のこともあれば、はっきりと「忘れたい」という気持ちを抱えている場合もあります。
(*注・・・以下、これに続く心の作用についても同様に、“無意識”の場合も、そうでない場合もあります、)
それまでの自分とは違う自分になるために、自分の知らないうちに何らかの行動をとってしまう人もいます。
「これ以上何も言いたくない。」という人は言語の障害を引き起こします。
「言われ続けていたのが苦しいのにそれをどうしようもできなかった自分。もうそれに耐えられない。そうである自分がいやだった。」という人は、「言われたくない。」と「聞きたくない。」ということを肉体に反映させます。
「自分を主張することよりも、自分を抑え、周囲の言い分を聞き、そこに自分を合わせてきた人」は、もうそれらを「分かりたくない」のです。「知りたくない」のです。これらの場合は理解力の低下を含んだ、意志の疎通が難しい状態へとつながります。
「自分の欲求を極力抑え、それで満足しようとしてきた人、我慢してすむならばこらえよう、としてきた人」は摂食行動、排泄行為に障害をきたします。自分の(肉体的)欲求、「もう抑えることなく解放し続けたい。」という心の作用が働くからです。「暴言を吐くこと」もそのなかに含まれます。また、性衝動もこのなかのひとつです。
「自分が置かれた立場、状況、その苦しさ、辛さから本当は逃げ出したかった。」「本当に心安らぐところにいたかった。」「自分の居場所がなかった。」という人は、「逃げること、場所を探すことを求めること」の作用として、徘徊という行動に出ます。
「働くことに喜びがない。心をこれ以上使いたくない。休みたかった。」という苦しさを抱えていた人は、「動かないこと」を求めますから、肉体の動きに不自由さが、あるいは麻痺が起こります。これは同時に「手助けしてほしい。」「だれかに頼りたかった。」という気持ちの表れでもあります。補助や援助を求める気持ちが作用するのです。
そしてもうひとつ、人物の識別についてです。人と人との関わりのなかで、多くの人は何らかの傷を受けます。ほとんどの人は日々の暮らしのなかで、それを解消しながら生きていきます。しかし、特定の人からひどく(深く)傷つけられたことがあったり、特定の人との関わりの続くことが苦しかったりする場合、「その人たちを含めた“人”全般とつながること(認識することが“つながること”だから)を避けたい。」という気持ちが作用します。
しかし自分が心から信頼し、安心できる人については認識が可能な場合も多く、加えて、「母親」を求めるのは、安心、信頼、愛情といったものの象徴としての母親像があるからであり、特に十分に甘えることができなかった人については、それが強く現れます。

《症状を抱える人とまわりの人とに》
抱えた苦しさ、変えてしまいたい自分、そしてどういうことを求めるか、という視点からみたおおよその内容は前述の通りです。症状は各個人によって違いがありますから、それに応じて心の状態(原因)についても“ずれ”はもちろんあるでしょう。しかし、症状を発現させるその“もと”には、必ず「心の苦しさ」があることには変わりありません。
周囲からみれば(症状の自覚のある場合は本人にとっても)困った状態であり症状であるこれらのことは、その本人にとっては「苦しさからの解放のために心が引き起こしたもの」であり、そうなってしまうだけのものをその人が抱え続けてきたということでもあるのです。
自分の変化についてそれを認識できる人は、この先の自分について恐怖心を持ち、不安に苛まれることでしょう。また、周囲の人は予測のできない事態の発生や、心と体の限界について、同じように不安や絶望感を抱くことでしょう。しかしながら先にも述べたように、心の状態を反映しているのが肉体なのですから、その心に“その人なりの健やかさ”を取り戻していくことが、肉体の健やかさへと結びつくのです。
しかしそこで、「意思の疎通ができないのにどうしてそんなことができるのか。」とか、「何も分からなくなっている人にどうすればいいのか。」という疑問を持つ人が多いのも分かります。
人の“心”は目には見えませんが、肉体の外側に(というよりも、肉体より少し高い次元に、と言いますが)“心のからだ”として存在します。見えませんからそれを実感しようとしても難しいのです。“気配”や“その人の雰囲気”、“その人の気持ち”を感じるというのはその“心のからだ”にあなた方の“心のからだ”が触れているからなのです。手でその人の肉体に触れることでその人の“肉体”を感じ、目で見、耳で聞くことで、その人の肉体的な情報(容姿等)を得ることができるのと同じしくみです。
人が人を癒していく、また、人が癒されていくにあたっては、この“心のからだ”を抜きにしては考えられません。そしてそこに作用するのが癒し手の、家族の“心のからだ”なのです。薬や介護という、物や肉体や行動によるお世話だけではその人に変化は現れません。同じ介護でも、そこに込められる“心のエネルギー”が、その人の“心のからだ”に作用するのです。関わる人たちの“心のからだ”の状態や“心”から発せられている思いをその人の“心のからだ”はそのまま受け取るのです。特に、認識力、理解力の減退や障害がある人ほど、その影響は大きいと言えます。“心”の作用を制限したり、阻んだり、隠したりする“理性の力”が弱まっているからです。
今までさまざまな苦しさを押さえていたのが“理性”です。自分の行動、感情をコントロールしようとしてきました。その“理性”の力で押さえることがもう難しくなり(それほど“心の苦しさの圧力”が高まって)理性の“たが”がはずれるのです。解放された心の力は理性が及ばないくらいに広がり、“症状”となります。

周囲の人たちはまずは一度「その人がその人であることができないくらい苦しかったのだ。」という目で見てあげてください。「どうしてこんなことに。」ということに対する答えがそれだからです。日々関わっていくことは、あなた方の心と体だけでなく、さまざまな“負担”を感じることでもあるはずです。
しかしその人が長い間抱えていた苦しさを今、分け持っているのです。失意、希望のなさを乗り越えて、ということの難しさを私どもは知っていますが、あなた方の“心”はその人の“心”を動かし、癒していくことが可能なのです。
無表情な人に笑顔が戻り、動かなかった体が動くようになるというのは、その人の心にあなた方からの心のエネルギーが注がれたからにほかなりません。
言葉にも行為にも全てにエネルギーは宿っています。“思うこと”がすでにエネルギーなのです。あきらめないでください。「全てにおいて愛情の目を向けて。」と強要はしません。ため息のでることもあり、辛さを感じることもあるからです。しかし、その人のことを“できる限り”喜んであげてほしいのです。今の状態が、現象面から見れば“困ったこと”であっても、本人にとっては“心”というところから見れば“解放”なのですから。それはそのままでいいということではありません。周囲から受容され、そのなかで解放される喜びを味わうことで、広がりすぎた心(コントロールしきれなくなったという意味で)はバランスを回復していけるのです。拒絶、否定、非難、排除、放棄というような“受容”とは逆の心のエネルギーもまた、本人には作用します。たとえ十分な介護を受けていたとしても、希望や喜びのエネルギーでなく、否定や排除といったエネルギーが込められていれば、その人の心は回復しません。それはこの人が抱えたさまざまな“苦しさ”というかげりを増幅させるからです。暗いエネルギーどうしもまた、“共鳴”するのです。喜び合うことでその嬉しさが増すのは、あなた方も実感として分かるはずです。その逆のことがこの人の見えない“からだ”において起こるのです。
周囲の人がさまざまなことに疲れ、心を重くしてしまった時、そういう思いを一時的に抱いたとしても、それを上回る「その人に対する気持ち」「よくなってほしいという思い」「何とかしてあげたい気持ち」を抱き直すことで、持ってしまった思いはまた解消されます。自分を責めることよりも、心を健やかな方向へ向けていくこと、それを忘れないでください。

《自分の状態が認識できる人に》
能力が減退し、次第に自分が失われていくような恐怖を感じてしまうのは仕方がありません。しかしあなたは「苦しかった」し、「解放されたかった」のです。それは何だったのか。自分は何が苦しかったのか、どうしたかったのか。そういう視点からあなたの歩んできた時間を振り返ってください。自分の苦しさに目を向け、その時の“心”を自分の目で確かめてください。あなたが苦しかったことをまわりの人たちも十分承知しています。抑えることも隠すこともないのです。もう無理をする必要もないのです。自分の心を大事にできる時期がきたのです。その時の苦しかった自分の心に向き合えたならば、その自分の心に向けて、慰めやいたわりや同情の気持ちを向けてあげてください。言ってほしい言葉があったのなら、言ってもらってください。
そのうえで今、自分のできること、分かること、楽しめることを心から喜んでください。それができれば次の“喜び”がそこに引き寄せられてくるのです。エネルギーどうしは引き合うのです。嬉しい心でいる時には、嬉しくない心は引き寄せられないものです。あなたが意識できる限りの“喜び”に近づいてください。
「自分の苦しさ」を出せなかった人、見まいとしてきた人は、つまりは優しすぎた人ということなのです。思うように振る舞うことも、好きに生きることもできなかったのです。そうしてきてくれたその人を、いたわりをもって見てあげてください。
逆に、思うように生きてきながら、「そうしかできなかった自分」を抱えている人もいます。その人には、そうしかできなかった悲しみを思ってあげてください。それは決して幸せなことではなかったのですから。

《そういう人を癒したいと思う人は》
“癒し”(治してあげたい)を思う人はまず第一に「受容」という心を大事にしてください。それぞれの人がそれぞれの苦しさを抱え、それぞれの症状を呈しています。受け入れることの柔軟さがなければ、その人に十分なエネルギーを注ぐことができません。いわゆる“痴呆”の状態の人には“説明”や“解説”は通じません。あなたの「治してあげたい。」「この苦しかった心を楽にしてあげたい。」という動機が響く人たちなのです。その人の全てを優しく包む、母親のような心のエネルギーを発してほしいと思います。
自分のなかの「苦しいことを避けたい。」という気持ちは、この人たちの病の大きな原因です。あなた方にも同じような気持ちはあるはずです。それを「どういうことにでも心を開いていく。どんな自分であっても、その自分を受け入れよう。」という気持ちに変えて頂きたいと思います。自分自身に対する受容や開かれた心は、どんな病にある人と関わるにあたっても大切なことです。
初めからその人に受け入れられなくとも、心をつなぐまではあきらめないように。自らの動機に従って、その人のために、その人の“心”という見えないからだを意識しながら関わってください。癒そうとする者自身ががっかりしたり、硬くなったりすることが、そのまま相手に伝わるのです。あなた自身が、日々、喜びの心で暮らしていくことが、癒し手にとって忘れてはならないことなのです。

《実際にエネルギーを通す際に》
その人の頭頂から。心のからだ全体に“安心”のエネルギーがいきわたるように。それがくまなくいきわたり、肉体にまでしみ入ってゆくように。
「心が満たされることで、恐れることも逃げることも必要ない。ありのままの自分でいられる。だからあなたは自分を忘れることも、壊すことも必要ない。今の自分、今までの自分を変えてしまうために諸症状が現れたのであるからそうする必要はもうない。あなたは症状を現すことによって逃げることはない。自分で自分を失おうとする必要はないのだ。」

*最後の「」のなかにあるようなことを意識しながら、対象となる人にエネルギーを通していきます。