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 煙草・喫煙

まわりの人から煙たがられても、やめられない煙草。
どうして吸わずにはいられないのかが分かります。

人々が“嗜好品”を求めるのは、それによって心の安定や休息、区切り、余裕を得たいからです。煙草もそのなかのひとつです。
かつてはごく一部の限られた地域の者たちが用いていたものだったのに、それが今や世界中に広まっている・・・。それは、時代を経るにつれて、楽しむという目的よりも、「たまったものを吐き出したい」という欲求が人々の心に影を落としていることの方が大きくなってきたことを表しています。
煙とともに吐き出すものは、苛立ちであったり、やりきれなさであったり、あせりだったりします。気持ちを落ち着かせたり、その時の気持ちを“まぎらわせたい”ということがもとになっている場合の喫煙は、その人にとっては“手放せないもの”となっていきます。“煙”という形にすることによって、その人の心に生じている毒素が、より確かに排出できたことを意識させてくれるのです。
具体的な“吐き出す”という動作や吐き出される煙が、その人に実感を与えるのです。

くつろげる時間を楽しむための喫煙であるならば、その時間はその人にとってゆったりとした余裕をもたらす場となるでしょう。しかしそういった楽しみ方のできる人は本当に少ないのです。

喫煙によって心を落ち着かせ、気分を変えて次のことができるのであればそれは“状況を変える手立て”として有効だったと言えます。けれども繰り返し、あるいは絶え間なく“吸うこと”を続けずにはいられないというのであれば、そこではなぜそこまでしてしまうのかの根本を見なければなりません。
心に抱いた苦しさを吐き出そう、まぎらわそうとして吸い込む煙草が、肉体を健やかな方へ向かわせるはずがないからです。むしろ、心のかげりを肉体に具体的な形として反映させることの手助け(具合が悪くなる。病気を発生させる。)をしてしまうことにもなります。それは、心の抱いた“かげり”と物質の持つ、肉体への“望ましくない物質の作用”とが共鳴するために起こることです。

男性・女性を問わず、今は心に苦しいものを抱えている人であふれています。口にすることのできない苦しさを誰かに受けとめてもらえさえすれば、胸の苦しさはずい分軽くなるのに、です。
苦しい時に誰かに頼りたいと思うのは自然なことです。しかしそれもかなわなければ、次なるもの(物質や行為)によって何とか心のバランスを保とうと人はするのです。自分の弱さを補うために頼るのですから、断ち切るのは難しいのです。
喫煙自体を悩みとする人は、それを断とうとすること以前に、自分の苦しい心を正面から見ることをして頂きたいのです。煙で逃がそうとしていたあなたの心、です。そこに心の焦点が合ってくれば、それを何とかして外へ出すことを試みてください。あなたが、自分の心を分かってくれる人に出会えますようと、心から求めれば、(家族とは限りませんが)言葉によってその苦しさを受けとってくれる人が必ず配剤されます。それがあなたが変わっていくきっかけとなるものだからこそ、導きによってもたらされるのです。

喫煙は、否定されるべき行為ではありません。上述したように心を整え、和らげてくれるものでもあるからです。しかし、そういったものに頼らなくとも、心の落ち着きをもち、気分を切り換え、仕切り直しができるならば、それに越したことはないのです。そしていずれは、「煙によって吐き出さねばならない心のかげり」を抱かずに、皆が生きられる社会になっていくことが、今、求められているのです。

本来、楽しみ・喜びというものは、まわりの者とも分かち合い、共有できるもののはずです。しかしながら、この、喫煙に関しては、なかなかそうはいきません。人の心にかげり(いやな思い)を生じさせながら、自分がほっとする、というのでは、それは本末転倒です。当然のことながら周囲への配慮と心づかいを忘れてはなりません。煙草については快・不快の別がはっきりしていますから、一方的な立場からの主張では解決しないことも生じます。
吸いたい者と吸わない者との、互いの状況と気持ちを考えながらの“共存”は考えていかねばならないことです。吸わない者にしてみれば、強い否定を持ってしまうのも無理はありません。しかし、“吸わずにはいられない”心の苦しさがその人たちにあるのだという目を加えることによって、互いに折り合いをつけやすくなるのと同時に、互いへの理解も進むはずです。