幼児(児童)虐待
人の心の原点、愛し愛されること。
それができない親と子の心のかげりの連鎖。
虐待をなくすのは“愛”です。
本来は無条件の愛情を注ぐべき者(子供)に対して、それとは全く逆の仕打ちをしてしまうことの残酷さを、それを“悩み”としてしまう本人が分かっている場合と、そうでない場合とがあります。
一方は深く愛情を感じながらも、何かきっかけがあると、扱いが一転してしまう場合。そしてもう一方は、「我が子でありながら愛情を感ずることができず、そのうえ、暴力(虐待)を与えてしまう」場合。しかし両者に共通するのは、自分の思うように子供がしなかった(できなかった)時や、気に触わるようなことを子供がしてしまった時に、抑えられずに力を振るう、ということです。
前者の場合は、深い愛情によって気持ちのところでは子供とつながろうとしていますし、それゆえに“一体感”があります。しかしだからこそ、自分の意に反する言葉・行動・結果が許せないのです。自分の感情・思いとずれる部分を受け入れられない、むしろ否定しなくてはならないのです。その否定のエネルギーが、虐待という形をとることになります。
こういった人は、子供を愛し、また子供から慕われるという関係性を強く望んでいます。仲の良い親子像を強く求めているために、それにそぐわないところを受け入れられないのです。それは実は、自分が幼少時に求めていた親子像でもあるのです。求めてかなわず寂しかったその気持ちを、今度は自分と子供との間で埋めていこうとしているのです。子供へ向かう「思い通りにならない」思いは、今の“親”として子供へ向けているものと、かつての子供だった自分が自分の親へ向けていたものとが重ね合わされているのです。とはいえ、これは“うっぷん晴らし”ではありません。どうにもならなかった思い(自分の幼少時)と、今の“思い通りにならない”という思いの共鳴のなかでの心の作用なのです。幼少時の満たされなさが、今、自分が親となって改めて浮き上がってきているのです。もちろんこの場合は、親からの愛情は分かってはいました。
だからこそ、自分の子供も愛せるのです。しかしそれとは別の満たされなかった部分(人によってまちまちですが)があるためのことなのです。
この場合は、自分自身の満たされなさに目を向けることが解決の糸口となります。自分のなかに抱えていた寂しかったこと、求めても得られなかったことなどをしっかりと振り返ってください。そして、そうであったにもかかわらず、今、子供に深い愛情を持つことができているそのことをまず、認めてください。愛情を持つからこそ、そうでない振る舞いをしている自分が苦しいのですから。
そしてできるならば、今までのことを勇気を持って話すのです。夫でも妻でも母親でもかまいません。あなたの言葉に耳を傾けてくれる人であれば。自分がそうしてしまった背景となった幼少時の満たされなさについても、です。その部分に温かい目が向けられていくなかであなたはようやく満たされていくのです。そこからが子供との関わり直しです。怯えることを知った子供はなかなか安心はしないでしょう。けれども、もともとの深い愛情によるつながりがそれを補助してくれるはずです。あなた自身も子供とともに育ち直すのだと言えるのです。
後者の場合は、「自分の全てを愛されている」という実感や安心を幼少時に味わえなかったことに起因します。育った環境の問題ではありません。たとえものが豊富に与えられていても、両親が忙しくとも、家族がけんかばかりしていても、そこに共通のものは、“実感できなかった”ことに尽きます。その場合、なかなか“与える側”にはなりにくいのです。まして思い通りにならない相手に対しては。子供を授かる時に思い描いたはずです。我が子にあふれるような愛情を注いでいる自分の姿を。しかしそれは、「そうしてもらいたかった。」という心の強い反映なのです。そして、そうされなかったことの傷は、ひたすら全てを与える側になりきれず、与えられる側として満たされたい、という欲求の強さを増幅させてしまうのです。しかしそれを子供に求めても、子供にそれができるはずもありません。子供からの愛情を、“自分の思うようになる”という形として求めてしまうわけですから、それに反するようなことが許せなくなるのです。さらに、子供を授かった時点からすでに愛情を抱けない自分に苦しい思いをする場合は、さらに持っている傷は深いと言えます。夫婦の喜びの共鳴によって新しい生命がもたらされ、それはあなた方に希望や幸せを運んでくるはずのものなのです。そうであるはずの者に、喜びや愛情を抱けないとすれば、それはとても悲しいことです。そうやって生まれて来た我が子に愛情を注げず、虐待してしまうのは、あなた方自身の“愛情”にまつわる“心”を痛めつけているのと同じなのです。だから自分もそれを悩みとし、苦しみとしてしまうのです。「本当は愛したい」のですから。だから自分で自分をどうしようもないと感じ、自分を責める気持ちをもつのです。-------けれども、大丈夫です。その「自分がしていることが、親として何とひどいことか」という目がある限り、必ず、そこから抜け出すことはできます。
「愛し愛されたい」というのは人間の根元的な欲求であるだけでなく、魂そのものの求めです。それに“心”が沿っていけないのは、それぞれの人の持つ心の傷であり、満たされなさがあってのことです。人を愛することのできない者など本当はいないのです。「どうしてもその子を愛せない」と悩む人は、「その子をひとりの人間として尊重し、“大切に”扱う」ことから始めてください。ていねいに、優しく、親切に。親としての“義務・責任・権利”を考える以前に、ひとつの生命として尊重してください。あなたは、その子によって、少しずつ“愛し愛される喜び”を学ばせてもらうのであり、実感させてもらうのです。“親”というあなたなりのイメージの枠のなかに自分の心や行動をはめ込もうとするのではなく、ひとりの人としての心でその子と関わってください。
“もの”や“かたち”、そして“金銭”や“力”によって今の社会が縛られ、動かされているということは、そこに生きる人々の心も、そういったものにがんじがらめになっているということです。“力”を持つ者は“力”を背景にして、より“力”を集めようとするのですし、より優位を保とうとします。“力”に勝る者が、弱い者を押さえ込み、思い通りにしようとする、自分の思惑を通そうとする、そういった“力”のエネルギーの共鳴が強烈にあるのです。
それは、あらゆるところに見出せます。国と国、会社どうし、働く者どうし、学校のなかで・・・というように。その構図がまた、親子間の関係性のなかに反映されてしまうという意味もあるのです。より強い者が、より弱い者の“力(喜び・自由・意志・・・)”を取り上げていく、という構図です。<br>しかしたとえそうであっても、あなた方には“希望”があります。それは「人と人とは愛し愛されることが喜びなのだ」ということです。両者の“力関係”や“支配的態度”を越えていくのが、この心のエネルギーなのです。
親との関わりのなかで抱いた“かげり”の連鎖、今はそれが形となって表れている時期です。それは虐待であり、家庭内の暴力であり、また、心のつながりが持てない、会話がない、関わりを持たない、ということです。しかしこれからは、その“かげりの連鎖”を解いていく時期を迎えるのです。それぞれが心満たされないまま暮らしている現状を変えていきたいと誰もが本当は求めているのですから。
自分の心の傷や満たされなさ、不十分さ、これから成すべきことなどに、正面から向き合うなかで、これらのことが変わっていくのです。一方の心の変化は必ず相手にも伝わります。傷つけてしまった相手を癒していくのは、すぐには無理だとしても、まず、始めなければなりません。そこから全てが始まるのですから。