質問編・4
Q)人は死ぬと霊界か幽界に行くのだと分かりました。その様子を詳しく知りたいのですが。
A)地上的な「死」は、魂が肉体を離れることですが、そこから先の経緯は、それぞれに違います。
主に4つのパターンと、それとは別に自殺した場合について伝えます。
@「地上→本来の霊界」 : 今の地上に生きる人々のなかで、肉体を離れてスムーズに本来の霊界に戻れる人はとても少ないと言えます。しかし、これが「死」の基本形です。
・Hさんの場合
彼女は、自分の地上的生命が終焉に差しかかっていることを知っていましたし、近づく「死」を受け入れていました。長年気がかりだった元夫との再会を果たし、思いを伝え、心の整理をつけました。
彼女の意識が薄らぎ、声や言葉による応答ができなくなった頃、肉体を離れる準備が整いました。
一瞬、後ろに引き戻されるような感じがした後は、“自分”が軽くなるのが彼女には分かりました。と、思うと例えようもない早さでどこかに吸い寄せられるような感覚がありました。それを彼女は高い所へ昇っていくように感じていました。
ふと気づくと、彼女を中心にして、まわりは先に他界した父親や祖父母が取り囲んでいました。
皆一様に若々しく輝いて、生気に溢れていました。皆は笑みをたたえ、彼女は自分が歓迎されていると分かりました。喜んで迎え入れられている―――と思えたその時、自分がとても大きく温かいものにすっぽりと包まれていることに気づきました。
それが「愛念」であることも分かります。
そして、「愛念」で包んでくれている存在こそが、守護霊であることを思い出しました。
親族たちと同じように、すぐそこに立っているのではありません。目の前にいるわけではないのに、“いてくださること”は実感できます。
「霊界へ戻ってきたのだ。」彼女は懐かしさに満たされました。
これから、彼女の「理解と納得」の段階が始まります。
守護霊の導きのもと、今回の人生の全てを振り返り、意味を知り、反省し、喜び、受け入れるのです。
守護霊は話しをしてくれるのではありません。
彼女を包む「愛念」から、まっすぐに彼女の意識に伝わってくるのです。彼女はそれを素直に受けとる。それだけでやり取りが成り立ちます。
彼女に大きく湧き上がったのは、「感謝と申し訳なさ」でした。すると、それをキーにして、彼女の人生が展開されます。
地上に生まれて両親から向けられた愛情、家族のなかで受けた恩、結婚、子育て、そして病。時間の流れと関わる人との間ではその時々でさまざまな出来事があり、さまざまな心が交わされます。その量は膨大です。しかしその全てを見せてもらえます。その時には分からなかった相手の気持ちが手に取るように分かります。自分がどれほど至らなかったか、不十分だったか、恥じ入りながら見ることになります。
そのたびごとに、詫びる言葉と感謝の言葉を言わずにはいられません。
特に、愛する娘たちに辛い思いをさせたことについては、直接伝えたいと思うほどの強い思いになりました。
しかし、申し訳なさに打ちひしがれることにはなりません。何故そうなったのか、彼女にとっての意味、娘たちにとっての意味が守護霊から伝えられるからです。それは彼女の至らなさをかばうものにはなりません。それでよかったという肯定でもありません。
けれども、魂の意志と約束における意味を知ることで彼女は理解し納得できます。
同様にして、「貢献」をキーにして人生を見ます。
苦労のなかで彼女が母親の助けになったことから始まります。明るく人と接するなかで、人を信じることで、そして娘たちを可愛がることで、たくさんのものを人々に与えてきたことが分かります。その時彼女に向けられた感謝、ねぎらい、喜びがまた手に取るように分かり、彼女もまた礼を言わずにはいられません。
このようにして「理解と納得」の段階が進み、終わるまで、どれほどの時間がかかるのか、それを地上的な時間で計ることはできません。一瞬とも言えますし、数ヶ月とも言えます。霊界には時間そのものがないからです。
このあと彼女は、「学びと貢献」に進みます。
それが本来の霊界で生きる、ということです。
彼女が加わるのは「ギャンブルで身を持ち崩しそうになっている者を補助し、立ち直らせるための働きかけ」をしているグループです。
かつて地上では、「分かりながらやめられない」という経験をしています。それによって生ずる家族間のいざこざも経験ずみです。
だからこそ、地上の者に強く支援できると言えましょう。
彼女の地上人生は、浮き沈みがあり、トラブルを生みました。人を傷つけたりもしました。激しい感情のぶつかり合いもありました。
そうでありながら彼女が一直線に霊界に戻れたのは何故か。
それは、病を得て以降、彼女が満たされて余りある程の愛情を娘たちに注いでもらったからに他なりません。
そのなかで彼女も自分の思いやりや優しさを取り戻し、身に受けた愛情を分け与えることもできました。
人生の終盤で、彼女は満たされ、愛情に目覚めました。それが彼女の他界後の経緯を左右したのです。
A「地上→サマーランド→本来の霊界」 : 本来の霊界に戻る手前で心満たされる必要のある人は、まずサマーランドに行きます。
ここは思いが全てかなう次元の世界です。しかし、かげりの幽界とは違います。その違いは「動機」です。かげりの幽界は、同じ喜びでも、自分だけに集める方向性、他者との比較、他者への優位性を持ちます。「満足」がありません。
サマーランドにおいて、思いがかなうのは(たとえ自分のための喜びであっても)心満たされて満足し、開放されていく方向性をもつからです。
・I さんの場合
・・・・略。気づくと彼は自分の体(肉体ではありませんが、意識のうえでは“自分の体”です)が若くしなやかで活力に満ちている、と感じました。「風のように速く走りたい。草の上をすべるように走りたい。」と思った途端、彼は疾走していました。
裸足の足の裏にかすかに触れる葉の先端を感じながら、彼は目にも止まらぬ速さで走る自分を思い、笑いがこみ上げてきました。
地上では力自慢の彼でしたが、自らの健脚を披露するチャンスはほとんどありませんでした。疲れを知らずいくらでも走れる自分を喜びながら、走っては笑い、笑っては走りを繰り返しました。
もう十分、と思った時、彼は「次へ行く」のが分かりました。気づくと、とても大きな人(人ではなく存在)と共にいる自分が分かりました。・・・・略。
彼はここから「理解と納得」の段階、「学びと貢献」の段階へと進みました。
B「地上→休眠状態→サマーランド→本来の霊界」 : 地上時代に激しい苦痛や強い衝撃を経験した人のなかには、魂が肉体から離れただけでは、その苦痛や衝撃が拭い去れない場合があります。
そういった人々はサマーランドへ赴く前に一旦休息をとるのです。苦痛や衝撃から解放され目覚めるまで、安定した状態・安心のなかで安らぐのです。
・Oさんの場合
彼女は、むくみ・腫れという肉体の変化に恐怖心を募らせ、そこからくる肉体の辛さに生きる意欲も萎えるほど苦しみました。形が変わっていく苦しい肉体を切り落としたい、もう終わりにしたい、と思いました。
「死」は安らかに訪れましたが、肉体から離れるだけでは彼女に平安は訪れませんでした。
同時に抱いていた経済的不安や心配も、彼女の苦しさとして意識に刻まれていましたから、すぐには“安心”の世界に共鳴できないのです。
彼女の場合、他界した両親が迎えにきました。彼女はふたりに抱きとめられてホッとし、「助かった」と思いました。何度も大きな溜め息をつき、やっと体の力が抜けていくような安心を覚えました。
そして、ふたりに抱かれたまま眠りに落ちていきました。もちろん、彼女の両親がずっと彼女を抱いているのではありません。両親は彼女を休眠状態まで導いたのです。
その意味で彼女は、かげりの世界――幽界――につながって行ってしまう可能性もありました。
経済的不安や心配からくる金銭への執着とそれにまつわる恨みが残っていたからです。
しかし、両親の手に自らを委ねる方、つまり情愛の方が彼女の意識のなかでは金銭よりも優っていたおかげで、休眠状態へ導かれていったのです。
何の不安もない眠りから覚め、彼女は、何の気兼ねもなく買物をし、遠慮なく支払いをする喜びを十分に味わいます。金銭に執着はあったものの、彼女がそうなったのは厳しいやりくりのなかでのことであり、自分に溜め込むためや自分が贅沢をするためではありませんでした。家族のために、そうなっていくしかなかったのです。金銭欲にかられた守銭奴の持つ執着ではありませんでした。
ですからサマーランドでは金銭を遣う自由を満喫して満たされるのです。
C「地上→幽界→休眠状態→サマーランド→本来の霊界」 : 地上時代にどういう心で生きたか。死を迎えてその人に最も強くある“思い”は何なのか。それらが深い“かげり”ならば、持っている“かげり”と共鳴する世界へと引き寄せられて行くのです。
また、自らの死を受け入れられない人(生への執着が強い場合と、死が突然にやってきた場合)も本来の霊界へは戻れません。
ただし、突然の死が訪れたとしても、その人が「死」の意味を理解していたのであれば、迷うことなく次の段階へ進めます。
逆に、「死」の意味を理解していようとも、深いかげりを抱えたまま死を迎えたならば、行き着く先は幽界です。知識はあっても、どういう心で生き、どういう心を抱いていたかで行く先は決まります。
・Nさんの場合
彼は「死」がどんなものか、を知っていました。死を迎えてから人の魂がたどる道筋も知っていました。だからどういう生き方をすべきかも知っていました。
しかし、彼が地上で繰り返したのは「言い訳と言い逃れ」ばかりでした。彼は自分が小心で臆病であることを自覚していましたが、それを越えて、おおらかに生きようとはしませんでした。
「仕方ないじゃないか。これが僕なんだから。」と、自分にも言い訳を重ねていました。
持病を持つ彼にとって、「死」は知ってはいても恐ろしいものでした。不快な症状や痛みは彼の不安を増大させます。
だから、自信を持って生きている人が眩しく、また胸を張って生きている人が妬ましい。誇りを持っている人を見るとけなしたくなるのでした。自分は、そうなりたくともなれないからです。
彼の死は突然やってきました。心臓発作でした。
肉体から離れる瞬間、彼は自分が“死んだ”のだと分かりました。
思っていたような解放感は全くなく、自分が薄暗い場所にぽつんと立っていることに気づきました。そこで彼はつぶやくのです。「仕方ないじゃないか。こうなってしまったんだから。」
時々雷鳴が響きわたり、そのたびに彼は飛び上がります。すれ違う人が自分の方を見て薄笑いを浮かべると「奴は馬鹿にしている!」と腹が立ちます。けれどもすぐに「あいつは何も分かっちゃいない」と思い直します。
勢いよくぶつかってきた子供は謝りもせず、あかんべーをしていきます。彼は怒鳴りつけますが、子供は少しも怖がらず、それどころか、彼が雷を怖がっていた様子を笑いながらはやし立てます。
「あれは、びっくりしただけだ。怖がってなんていない。ここは慣れない場所だからだ。鳴ると分かっていたら、あんなに驚かなかったぞ。仕方ないじゃないか。」
わめき立てても子供は聞く耳を持たず、走り去ります。「何て奴らなんだ」と怒りながら、同じようなことを一体どれほど繰り返したでしょう。
彼はふと「自分は今、何をやっているんだ?」と自問しました。
「死んだ」と分かった時から今まで、相も変わらず繰り返してきたことを思い返し、初めて疑問を持ちました。
その時です。鋭い一条の光が彼の“こめかみ”を射抜いたように感じました。
「僕は何をやっていたんだろう?」もう一度自問しました。すると今度は彼の胸にまた光が差し込みました。「これなあに」という言葉と共に。
それは子供の声でした。
彼も地上では父親でした。子供がまだ幼かった頃、つぶらな瞳をキラキラさせて彼に聞く時の声でした。
射し込んだ光は彼の胸のなかに広がり、彼は自分の周囲が明るくなっていくのを感じました。すると、彼のまわりをおびただしい言葉の帯が取り巻きました。そのひとつひとつはかつて彼が地上で目にしたものばかりでした。祈りがあり、真実があり、愛がありました。
彼はようやく安らぎのなかに落ち着いた自分を感じました。声の帯の間から低く流れてくる声の主が誰なのか…。思い出そうとしながら彼はまどろみ始めました。
こうして彼は休眠状態に入りました。
幽界に迷い込んだ彼、全く抜け出すことのできなかった彼を救ったのは、地上時代に子供との間で交わされた愛情であり、またそのきっかけを作ったのは、地上時代に彼が喜びや救いを感じた「真実」の光でした。
彼は知識を自らの人生に反映させぬまま地上を去りましたが、真実に触れ、その言葉に感動したのは嘘偽りない喜びでした。それが彼にとっての財産だったのであり、彼の役に立ったのです。
やがて休眠状態から目覚めた彼は、自分がかつて感動した「真実」の光に自らの人生を照らして、今回の人生を振り返ることになります。
D自殺によって地上を離れた場合は、まず幽界へ
神から授かった生命を自らの手で断ち切り、地上人生に幕を下ろしてしまうのは、「してはならないこと」です。
この場合、向かうところは幽界です。ほとんどは、自殺の原因となった「逃げたかった気持ち」が作り出す世界へ行くことになります。これは罰ではありません。本来の霊界に戻ってから自殺の意味を知ったなら、その重さに耐えきれぬからこそ、戻る前に埋め合わせとして幽界で一定期間を過ごすのです。
それは“計らい”だと言えましょう。
その彼らも時が来れば必ず幽界から抜け出し、休眠状態に入ります。
自分がとどまっている世界に疑問を感じる者、地上に残された家族や親しい人々からの愛念に反応する者、いわゆる霊能者からのエネルギー(思念で)気づきを促される者、とパターンはいくつかに分かれます。
その日がいつ訪れるのかは、どの程度の埋め合わせが必要かによりますし、その人を導く側からの計らい次第と言えます。
いずれにせよ、彼らも必ず救われます。たとえ何十年幽界にとどまったとしても、地上的時間では「長かった、かわいそうに」と思うものであっても、彼らには時間の感覚はありません。それに、幽界を抜けて休眠から先は、解放され自由になり、安心して生きるのみですから、心配は不要です。
幽界にとどまっていた期間や状態は、彼らの“傷”として残ったりしません。休眠状態を終ることで全て癒されるのですから。幽界を経験したという事実は経験として残りますが、それも学びのひとつとして、後々その人(霊)の役に立っていきます。
地上に残された皆さんは、「自殺」の意味を知ったうえで、その人に対し、愛念を送る、そして導きを願う。これがその人への何よりの支援です。
幽界にとどまる霊を救うのは愛情以外の何物でもありません。
残された人々のさまざまな思いは、いずれ人生全てを振り返る段階で、その人の知るところとなります。幽界での埋め合わせを経てきたとは言え、それを知るのは本人には厳しい作業です。しかし、ひたすら送られた愛念はここでもその人にとっての救いになります。
してはならぬことをした自分に対して送られる愛念とは、「悲しみ・悔しさ・許し難さ・辛さというさまざまな思いを越えた愛」であることを知り、有難さに満たされるからです。
もしも、家族や友人・知人もないなかで、人知れず生命を断ったとしたら、その人に愛念を送るのは、先に他界した近親者や親しい者たちです。孤独のなかで死を選んだ者であっても、救いの手は差し伸べられるのです。
自殺によって地上を離れた場合、動機のいかんによらず、赴く先は幽界です。
しかし、その動機の内容が、「愛情」に基づくものの場合、幽界にとどまる期間(つまり埋め合わせの期間)は非常に短いということを付け加えておきます。