質問編 2
Q.)「魂の伴侶」とは何ですか。
A.)「今回の人生で男女として愛し愛される喜びを交わし合う。互いに補い合うなかで、両者の人生の目的を達成する。最大の理解者・協力者同士であり、唯一絶対の存在である。」
霊界では、両者は共鳴度が最も高い者どうしです。だから、引き合うのです。
再生にあたっては、ふたりの間のカルマの解消を前提としたうえで、今回の人生で「ふたりが成すべきこと」を約束します。
それは過去世において、「こうあるべき」「こうするべき」と分かりながらできなかった事柄です。
その内容は「ふたりがどういう関係性を築いていくか」「ふたりで共に何をしていくか」に大別されます。
皆さんが背負うカルマは「自分としてのもの」だけではありません。人間関係のなかで作られたカルマもあるのです。
魂の伴侶とは、全て(魂―心―体・行動)を重ねて生きる者同士を指すのですから、いかなるものであれ“不調和”は両者にとって重いものとなるのです。
喜びのなかで共に生きるのが当たり前のふたりのはずなのですから。
しかし、いざ地上で生きてみれば、喜び以外のものはいくらでもあり、そのなかでふたりは不調和を調和しにくくなります。場合によっては反目、対立、嫌悪、といった、およそ愛情とはかけ離れた状態にまで陥ります。
けれども霊界に戻ったならば、再び出会うことを約束するのです。
カルマを解消してこそ、ようやく本来のふたりのあり方に立ち戻れます。互いの間にある愛の交流を阻むものがなくなるからです。
そこからが、共に地上で生きる意味を体現していく段階に入るのです。
何か特別なことをするとは限りません。
「本当に幸せそうなふたり」「誰が見ても憧れるふたり」として生きることが、そのふたりの貢献かもしれません。
「協力して困難に立ち向かうふたり」が“成すべきこと”の中味かもしれません。
あるいは「ひとつの仕事をふたりで一緒に」というものかもしれません。
事柄やあり方がどうであれ、ふたりが喜びと幸せのなかで生きるのには変わりがありません。
そのふたりにとっては、相手がいてくれることが嬉しく、共に生きられることが幸せなのですから。
場合によっては、今の世間からは認められない「あり方」を選ぶかもしれません。
「愛し合う男女」が必ずしも婚姻という社会的認知を得るとは限らないからです。しかしそれを選ぶのにも、カルマを含めた霊的な意味はあります。
男女の出会いは一度だけではありません。
「この人こそ」と思った人が「魂の伴侶」なのかどうか、よほどのことがない限り皆さんには分からないことです。
今回の人生で共に生きる、と霊界で約束した以上、「魂の伴侶」との出会いは必ずあります。それが恋愛の何人目なのかは分からなくていいのです。
その時好きになった人、愛した人との間にも「霊界での約束」があったのです。関わりのなかにカルマの解消、学び、貢献が必ずあります。
好きになった、愛している、という思いを大切にし、相手に対して誠実に関わる。これが正解です。
そのうえで、魂の伴侶でないならば、自ずと別れが訪れます。
逆に、「共に生きる」と約束した者同士は、何があっても関わりは続きます。それが魂の意志であり、また、導きだからです。
今回の人生においては、「魂の伴侶」と共に地上で生きることにはならない人もいます。そこには理由が大きくふたつあるます。
「その人との間ですでに(今までの人生で)愛し愛される喜びを十分に交わし合う関係性が築けた。しかし、他の人との間にカルマが残っているために、自分だけが再生してくる場合」
「ひとりで地上に生きることで、ふたりの間のカルマを埋め合わせる場合」
いずれの場合も、もう一方は霊界において見守り援助するか、地上で親(ちか)しい存在として、惜しみなく愛情を注ぐ者として関わるかになります。この場合の地上での関わり方は「男女として」のものではありません。そうはなりません。しかし、霊界に戻り、人生を振り返る場面で、このことは明らかになりますから、必ず喜びの再会ができるのです。
「魂の伴侶」にいつ出会えるか。
その答えは、「ふさわしい時に」「その人の準備が整ったら」です。準備とは、皆さんが、自分の持っている愛情(やさしさ、親切心、思いやり、正義感・・・)を素直に表現していくようになっていくこと、と思ってください。
相手は「全く見ず知らず」の人ではないかもしれません。すでに出会っている人のなかにいるかもしれません。
今までそうは思えなかった恋人や夫(妻)に対して、新たに心で出会い直しをするかもしれません。
出会いも別れも全ては魂の意志と導きによって計らわれるものです。思いに素直に、誠実に。このことを大切にして人と関わっていってください。