霊界通信 「霊的法則の基本」悠々塾ホームへ

――今回は本来の順を変えてこのようなメッセージがもたらされました。

 霊的真理を伝える(伝えようとしている)人たちに向けて

全ての人たちのうえに燦然と輝く法則・真理の見事さに触れたなら、あるいは自らそこに救いを見出したのなら、自分以外の人にも霊的真理を知らせてあげたい、と思うでしょう。
皆さんは、そこに何かしらの喜びを見出したからこそ、霊的世界を受け入れ、摂理法則を学び始めたのでしょう。見出した喜びは、真実であり、希望、救い、安堵、納得、・・・と人それぞれです。
皆さんのそれぞれが抱いていた不安や恐れや罪悪感、後悔、憎悪・・・といったものからの解放であっても、やはりそれも大きな喜びです。

霊的真理を知ることは、誰にでもどこにいても通用する価値観を知るということです。
そして、霊的真理を伝えることは、言葉で語るのみならず、自らの言動・生き方を、伝える内容に添わせていくことでもあります。
 
摂理・法則を“知る”ことは、その人が「自分の歩んでいる道、今までの自分、今の自分」を見ることができるようになるということです。だからこそ、本来のあるべき姿を目指していけるようにもなるのです。
自らも実践し、人に伝えてもいけるのです。

摂理・法則は完璧なものです。真理は不動のものとして存在します。
しかしそれを知り、実践しよう・伝えようとする皆さんは、決して完璧でも不動の存在でもありません。
地上に生きる皆さんが、霊界に生きる私たちと大きく違うのは、「地上的な感情」つまり、“自分としての気持ち”“自分としての都合”の影響が非常に強い点です。
霊界で生きる私たちも、もちろん完璧ではありません。しかし、少なくとも「地上的な感情」は卒業しているのです。

霊的真理に触れ、学んでいこうとする皆さんは、機会あるごとに自らの言動を振り返り、点検する機会を持つことになります。もたらされた気づきの機会を学びや実践にしていけばいいのです。いつもそうできるとは限らなくても、その方向で進んでいけばいいのです。

しかしながら、真理を伝える人・伝えようと志す人はさらに意識すべきこと、点検すべき点があります。自らの言動は霊的真理にかなったものであるか、それだけでなく、言動の動機に曇りはないか、ということです。
地上だからこそ通ってしまうものがいくつもあります。
嘘、ごまかし、言い訳。力を持つ者の言い分。事実の歪曲。
いずれも自分の気持ちと自分の都合に基くものです。
そして、誰の心にも生じてしまう心のかげりも地上ならではのものです。
特に、「比較において心をかげらせてしまう自分」がいないかどうかという点は大切です。
なぜなら、今の地上人類が越えていくべきものが「違い」だからです。「違い」によって心かげらせるのではなく「違い」を認め合ったうえで、補い合い支え合う「協調」に変えていくのが共通の目標だからです。

霊的真理を伝えることによって実現すべきなのは、そういう心のあり方・生き方に皆が変わっていくことです。
だとすれば、真先に、真理の伝え手が「比較において心かげらせてしまう自分」を見、それを越えていかなくてはなりません。
普段から自らの言動の動機を見る習慣は必要です。
特に、人との関係性のなかで、「言動」はあるのですから、“その人(たち)と自分”をめぐって問題が生じたのなら、言動の動機を正直に見る必要があります。
もちろんそれ以前に、言動そのものを振り返らねばならないでしょう。
・自分は相手のためを思ったか。
・言動に誤り(過ち、ではありません。事実に基いているかということです)はなかったか。

このふたつは、つまり自分の言動は「人として正しかったか、人として優しかったか」を振り返るということです。
自分を正当化せず、正直に自分を振り返るのは、簡単なようで難しいものです。
けれども真理を伝える者・伝えようとしている者であるならば、霊的真理に照らして、自らの言動を点検していくなかで、真理(摂理・法則)に添った生き方を積極的に求めていくべきでしょう。むしろ、率先してその範を示していくのが望ましいのです。

「今、自分が言っていること、していることを同じように霊界で、神の前でも言えるのか、できるのか。」
自分の言動を振り返る、とはそういうことなのです。

その結果、言動の誤りや動機の曇りに気づけたのであれば、それを受け入れ詫びるだけです。
対象となる人(たち)に、そして自らの魂に。
人間は完璧でなく、地上的感情を持つがゆえに、また同じ過ちを犯すかもしれません。しかし、そのたびごとに気づきを繰り返し、自らの間違いを正そうとすればよいのです。それが学びなのですから。
これは真理の伝え手だけにあてはまることではありません。

しかし、霊的真理を知り、喜びを見出し、「伝えること」を志す人ならばこそ、霊的真理に従って生きる喜びと幸せを知っているのです。また、そうしていくことこそ、「身を以って伝える」ということなのです。