カルマ反映のパターン
皆さんは、いくつものカルマを背負って今の地上で生きています。カルマを持たない人はいません。
かつての人生で作ってしまったカルマを解消するのは今回の人生の大きな目的です。カルマに基いて、その人のテーマ(越えるべき課題、貢献)が定まります。
成長する環境は、背負ったカルマが発現するために必要な条件です。つまり、皆さんの両親は、皆さんのカルマを具体化させる種を皆さんの心と体に蒔くのです。
しかし、カルマ反映(発現)のパターンはひとつではありません。幾通りかに分かれます。そのどれを選ぶかは、その人の魂の学びによって違います。
例をあげましょう。
「今生でAさんはBさんにひどく傷つけられています。身に覚えのない中傷を受け、その原因・責任まで負わされています。AさんはBさんを許し難く、どうしても納得がいきません。」
この場合、“単純な反映”ならば、「かつての人生ではAさんとBさんの立場は逆だった」と考えられます。つまり、自分がしてしまった過ちが前提としてあり、同じ思いをするなかで過ちの埋め合わせがなされる、というものです。
Aさんが自らのカルマの情報を手にしたならば、理不尽さや不当な仕打ちに対して一定の理解ができるでしょう。さらに進んで、Bさんに対する申し訳なさや受容的な思いを持つことができれば、埋め合わせ以上の学びを得たことになります。
Bさんとの関係性の修復ができれば申し分ありません。調和に向けての努力は、Aさんにとって大きな進歩となります。たとえ具体的なカルマの内容を知らなくても、「カルマ」についての知識があれば、それに自分の状況をあてはめ、怒りや憤りを受容と調和に向かわせていくことが可能でしょう。
しかし、“単純な反映”ではない場合もあります。「かつての人生においても、ふたりの立場は全く同じだった」というパターンです。つまり、Bさんは同じ過ちを重ねているのであり、Aさんは同じ傷を受けているのです。
このパターンの場合、AさんがBさんに対して抱くのは、(許し難さはあるにせよ)怒りや憤りよりも、悲しみや自己否定、憐れみの方が強いのです。
だとすればAさんはどうしたら良いのでしょうか。
最終的な答えとしては、Bさんとの関係を調和に向かわせる、というのが目標ですが、そこに至る過程はひとつではありません。
ひとつは、「Bさんに対して、Bさんのしていることが過ちだと示すこと」です。ただ耐え、我慢するだけでは、Bさんは自らの過ちを過ちとして認めることはできません。悪いと分かりながらそうしてしまっている以上、どこかで歯止めをかけねばなりません。一方的なBさんに対し、正面から指摘するのは勇気の要することです。
しかし、「かつての人生でAさんは言うべきだった」のです。つまり、この過程を経るべき人(Aさん)は、本当ならBさんの過ちを正すべき立場、関わりだったということです。しかしそれをしなかったから、今生でまた同じ思いをしているのです。
地上を去った後、「あの時、はっきりと指摘し、間違いだとわからせてあげなかったのは自分の不十分さだった」と悔いたのです。だからこそ今生では、Bさんの過ちを明らかにしなくてはならないのです。
別なパターンは「Bさん自ら、自分のしていることの間違いに気づくまで今の状況を受けとめること」です。Bさんは自分のしていることは分かっているのですから、続けているうちにふと自分の醜さやおぞましさに気づく時があります。それを信じて祈り、待つのです。これはAさんがBさんに対して許し難さを越えて「許し」を思えるようになってこそ可能なものです。自分が悪者になっても構わないから、Bさんが気づいてくれるように、と願える場合です。この過程を踏んでAさんがBさんを思えるのは、Aさんの魂の学びがBさんよりもずい分進んでいることを意味します。その意味では「かつての人生ではBさんに対し、価値観や生き方を教え導くはずだった」のです。かつての人生で感情的になり一方的になってしまったBさんを導けなかった(救えなかった)からこそ、今生でもまた同じ状況が再現されたのです。
今、現れている状況は霊的法則に従ってもたらされているものです。
「蒔いた種は自らが刈り取る」のですが、種の蒔き方が同じ、種が同じでも、刈り取り方は個々人によって違うのです。いかにして刈り取るかは、その人の魂の学びによって異なります。
しかし、いずれの場合にも共通なのは、「カルマ解消は愛(愛情)を以て為される」ということです。かつての人生で相手に向けるべきだった愛情、その場面に応じた対応があるのです。
今生では、それを上回る愛(愛情)を以て関わるしかないのです。
カルマの解消はマイナスをゼロにするものではありますが、同時に、それは進化向上、進歩です。
埋め合わせに必要なエネルギー、調和に向かわせるための努力、理解、受容。それら全ては愛(愛情)が元になるからです。
カルマの法則とは、「仕返し」や「バチが当たる」というものではありません。「やったことが返ってくる」という単純なものだけではないのです。
カルマの法則を知る、というのは、皆さんの今までや今を理解し、納得するために役立ちますが、「仕方ない」とあきらめるためのものではありません。まして「自分がそうしたの(だろう)から、そうされても当然」とか、「こういう思いをするのは(こういう目に遭うのは)前世で悪いことをしたからだ」と自己否定するためのものではありません。
理解や納得、受容は、今までと今を受け入れ喜ぶためであり、また、これからをより健やかなものにしていくための前段階にすぎません。
大事なのは、今までと今、愛情を交わせなかった者同士の間に愛情の絆を結び直し、愛情を通わせあうことです。
それは指摘や謝罪や憐憫、評価や受容、理解といったさまざまな形で為されます。
皆さん自らのカルマの解消は、「自分の意志によって本来の自分の心で生きていく」ことでなされます。自らの愛情を形にして表現・実践していくこと―――つまりは貢献―――です。
特定の人との間のカルマの解消は、「(今できる関わり以上の)少し勇気が要る、その気にならないとできないというくらいの関わり方、愛(愛情・思い)の向け方をしていく」ことでなされます。
いずれにしても「カルマ解消は愛(愛情)によって為される」のです。
カルマ反映のパターンはひとつだけではありません。そのパターンは幾通りもあります。しかし、解消の鍵はひとつなのです。