■0454■メッセージ・「知識よりも実践を」
〜拉致問題への視点の提示〜 (02.9.26)
地上人類の霊的進化、地上界の浄化を目的としてもたらされる霊界側からの働きかけ。スピリチュアリズムの名のもとに伝えられる霊的真理は、多くの人々の目覚めを促し、人々の意識を変えていくうえで必要不可欠なものでした。知らないが故に抱く恐れから人々を解放していくためには、まず、「本当のことを知ること」から始めねばならなかったからです。
人々は学びました。全ては摂理・法則の顕現であること、全てが導きのなかにあるということを。完全緻密な摂理のなかで人は生かされているということを。しかしこれは、「筋書き通りに動かされている」というものではありません。完全なる摂理を伝えられる一方で、あなた方に与えられている「自由意志」を忘れてはならないのです。これこそがあなた方が今、地上で生きている意味をなすものだからです。
霊界側は求めます。「摂理に添いなさい。導きに全てを委ねなさい」と。しかしこれは、「何もしなくてもいいのですよ」「全部任せておけば、全ては動いていくのですよ」「このままでいいのですよ」ということではありません。
あなた方が地上において、摂理に添い、導きに全て委ねるというのは、ただそこで生きている(暮らしている)だけでいい、ということではないのです。摂理の根本は、「喜び・愛の顕現」です。それが地上においてもなされる(実現される)ように務めていくのが、地上で生きるあなた方の役割であり、学びなのです。そしてそれが、摂理を実践することだと言えるのです。
「自分ひとりが何かをしてもしなくても世界は回り、事態は動いている。自分ひとりくらい、何をしようとしまいと大勢(たいせい)に影響はない」こう言うあなたは、あなたに与えられた自由意志を「何もしないこと」に使っているのです。自由意志とは、「何かをする」ことだけを指すのではなく、「しないこと」をも含みます。
さて、スピリチュアリズムを多少なりとも知っているあなた、霊的真理・霊的法則を知った、というあなたはどうでしょう。当然のことながら、人間が地上に生きる意味も目的も既にご存知のはずです。「霊」の学びは、いかにして愛と喜びを顕現していくか、です。
霊的存在である「人間」もまた同じです。今、地上に生きるあなた方は、過去世において、それとは逆の不十分さを残しました。そのカルマの解消と、それ以上の貢献を目的として、こうして再生してきているのです。
そのために自分に試練が与えられ、時に悩み傷つく、その意味も分かっているでしょう。
必要なことはもたらされる。それが喜び以外のものであっても、それこそ学びのための導きなのだとご存知です。そして、それは自分自身の身に起こる事柄だけではなく、目にし、耳にするもの全てに及んでいるのです。何ものも決して無関係ではなく、つながっているのだと学んだはずです。これらを踏まえて、自分の周りを見渡した時、あなた方は物事をどのように捉えるのでしょうか。
辛い目に遭う人々、虐げられる人々、理不尽な目に遭わされた人々に向けて、「それはカルマの埋め合わせなのだから、仕方のないことだ。もともとは自分の蒔いた種なのだから、その刈り取りをしているだけのことなのだ」、という見方、思い方をするだけでしょうか。では、そういう目に遭っているのが、あなたの家族やあなた自身だとして、同じように思うことができるでしょうか。
不遇や不運に対して、慰めやいたわりを向け、不当なことへの憤りが湧き、現状を変え、幸せがもたらされるように力を尽くそうとするのではないですか。
確かに「現状」は因果律の反映です。だからと言って、それをそのまま放っておくことが最良ではないのです。もちろん、人間のできることには限界があります。しかし、目にし、耳にするものは、あなたに向けられた「問い」でもあります。
それを見て聞いて、あなたはどう思うのか。
それであなたはどうしようと意志するのか。
そのために何をするのか。
あらゆる場面で、いつも問われ続けています。自分が直接関与することについては、「何をするのか」は、実践として結びつきやすいでしょう。(それでもさまざまな理由であなた方は「分かっていてもできない」となりがちです)しかし、社会全体、国家間の出来事、地球規模のこととなると、そのために何をするのかという具体的行動までは見えにくいでしょう。
しかし、まずはそれらのことを、「どう見るのか」「どう捉えるのか」をよく考えてください。そして、そこで必ずすべき作業があるのです。それは、「同じ要素が自分のなかにあるのではないか」と自らを顧みることです。それが「実践」に結びついていくための作業として必要なことであり、自らのなかに見えた同じ要素を改めていくことが実践なのです。
たとえば、「拉致問題」について考えてみてください。何の関係もない市民が、自らの意志に反して連れ去られ、自由な人生を奪われる。本人と家族の苦しみと悲しみを思って、あなた方は胸を痛め、また憤りもします。しかし、かつてそれと同様のことをこの国もしたことについて思った時、同じ思いをさせられた人々がいかにに多かったか、を忘れてはなりません。しかし、だからと言って、「同じことをしたのだからそうされるのは仕方がない」と処理すべきでもありません。理不尽に行われた「拉致」という行為に対しては、あくまでもその全貌を明らかにすることを求めるべきです。
そして、してしまった側は、その責任において、真相を明らかにしなければなりません。もちろん、強制連行・拉致という不法行為をした双方の謝罪は大前提です。
そのうえであなた方は、振り返ってみるべきことがあります。
「間違いと分かりながらしてしまったこと、それを隠すための嘘・ごまかし。相手の気持ちを無視して押し通した自分の都合・・・・・・」そういうものが自分のなかになかったかどうか、あるいは、今、そういうものがあるのかどうか。人の人生を奪う、というところまでではなくとも、謙虚に正直に自らを顧みると、気づくことはありましょう。
気づいたのならば、そこにある自分の過ちや至らなさを、まず詫びることです。相手に直接伝えられない状況ならば、心からの謝罪の思いをその人に向けて送ることです。これが「実践」のひとつの形です。問題のレベルがあまりにも違いすぎる、と言ってしまわぬように。全てはつながっており、全体と個は相似形というのも法則のひとつです。
ひとつの社会事象を見たときに、ひとりひとりが自分のなかにある同じ要素に気づき、それを反省し、詫び、改めようとするならば、その出来事を引き起こす元になったかげりやその連鎖を解いていくことになります。
そこでは、「自分ひとりが何かをしてもしなくても大勢に影響はない」という思い方は(実は)、成り立たなくなっているのです。
全体と自分、他の人と自分とを切り離してはいけません。それが公平ということだからです。
自分と他の人、自分の家族と他の人々、自国と他国。自分以外に向けたことは、見方であれ、言葉であれ、行為であれ、全て自分にも適用してください。そして同様に、自分に向けたものを、自分以外の人にも向けてみてください。
どちらともが喜びとできるものであるかどうかを、考えてください。しかしここで誤解してならぬのは、それが摂理に沿っているものか反しているものかを踏まえていなければならない、ということです。例えば自らの嘘に目をつぶるから人の嘘にも頓着しない、というのは自分に都合の良い"公平さ"です。前提が違っているのです。もちろん正解は「自分は正直にありのままにあろうとする。他の人にもそれを求めていく」。
この「答え」は誰にでも分かることです。しかし、この簡単な答えを「実践」に移すのがいかに難しいか。
だからこそ私たちは繰り返し伝えるのです。
知識よりも実践をと。
たとえスピリチュァリズムを知らずとも、摂理・法則という知識を手にしていなくとも、知らずのうちに摂理・法則に添った実践の人生を送る人は山ほどいます。知ることの意味よりもそれを実践することにこそ意義があるのです。
知識は本来人を謙虚にさせ、心をさらに広げるはずのものです。霊界側は地上の人間が不安と恐れから解放されることを目的の第一番目として、働きかけを始めました。そしてそれによって今、地上界で何をなすべきかを見定めることを、さらに地上の人間が実践することを、第二、第三の目的としたのです。
愛と喜びの顕現とは少しも難しいことではありません。自分も自分以外の人も愛すること、思いやりの心を向けていくことにほかならないからです。
今回の「拉致問題」においては次のように思い、実践することが求められます。
・為政者はまず、自国の過ちについての謝罪を。そのうえで今回のことに関して包み隠さぬ情報の開示を。
過ちのうえに嘘・偽りを重ねてしまえば、真実からも正義からも遠くなる。真実を明らかにするところから最終的には許しや和解への道も開かれる。
政治の犠牲となった人々へは補償という形での償いも必要である。
それが解決そのものでないが、形にして表すことも大切なのだから。
・一般の人々はまず、両国間で同様のことがあったという事実を踏まえること。
特にこの国が「戦争」を通じ、(あるいはその前後も含めて)相手の国に向けてきた行為の事実を認識しなくてはならない。そこで、「お互いさま」ということになるのではない。同じ痛みや悲しみを知ることになった者どうしとして、双方を見ることができるのが望ましい。
当然のことながら、愛する者を奪われた「家族の者たち」の怒りと憤りは、簡単に収まるものではないだろう。その思いを否定することはできない。(しかし、それを和らげるものがあるとすれば、事実を明らかにし、心から謝罪することしかない。)
そして、同じ痛みを経験した国の者どうしとして(たとえ何十年経っていようとも)、双方の国の人々に対するお詫びの気持ちといたわりの気持ちを向けること、さらには、今後の明朗な関係を求める気持ちを持って頂きたい。
先に伝えたように、自分のなかにある同様の要素(かげり)について、自らを顧みる作業をしていくように。詫び、改める必要があれば、躊躇なく実践していくように。
くれぐれも抱いてはならぬのは、相手の国に対する攻撃的な思い、憎悪、偏見、差別である。思うだけでなく、その国に関連しているというだけで、腹いせや攻撃の対象となる人、差別的な扱いを受ける人が出れば、そこから「許しがたさ」は互いの国の間で増幅する。
今、両国、両国民の間で目指すべきものは、真相の解明、謝罪、(最終的には)許し、和解である。それと逆行する憎しみの連鎖の芽を、あなた方の心に生じさせることのないよう。
人と人とが愛情や喜びによってつながることを願うあなた方なら、そして、地上に生きる生命の幸せを願うあなた方ならば、憎悪や対立、争いよりも、許し、和解、協調を求めて頂きたい。
(2002年9月26日受信)