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 ■0240■「嫉妬・ねたみ」について (01.11.30)

男女間の嫉妬とは別に「自分と誰かとの比較において抱いてしまう気持ち」としての嫉妬や妬みについて伝えます。

人はいつも「自分」を意識しています。自分自身のことを自分自身の内面について思うだけでなく、他との比較で自分を意識します。その比較は、自分にまつわるあらゆる要素においてなされます。自分は幸せかどうか、収入は、社会的地位は、学歴は、容姿は、趣味は、知識の量は、特技は、経歴は、持っている物、住まい、夫や妻、子供、親 ・・・。さらには、友人の数、友人とのつながり、人にどう思われているか、どう評価されているか ・・・。
「比較」しようと思えば何においてでもそうできます。そしてそこで自分が少しでも"優位"だったり"上位"だったりすると安心できたり嬉しかったりし、逆に、「劣っている」と感じたり、「自分にはない」と感じると、不安になったり、腹立たしかったり、悔しかったり、情けなくなったりします。自分は自分でいいのだ、と分かっていても、つい「比較」してしまう自分がいるのです。

特に自分が興味関心を持っていること、願いや欲求を持っていること、自信を持っていること、力を発揮できる(したい)と思っていることについては、その傾向は強まります。自分にとって意味のあるものについては喜びもかげりも大きくなるのは当然のことです。
例えば、「早く自分も幸せな結婚をしたい」と願っている人が、次々と幸せになっていく友人知人を見て、「うらやましい」「よかった」と思うのとは別に、「それが与えられない自分」「願いがかなわない自分」に意識が向かうと、「うらやましい」に表現されていたはずの喜びは「ねたましい」という嫉妬に変わります。あの人はそうなのに自分はそうならない、それが腹立たしくなります。その人の喜びを喜べなくなるのです。
また例えば、自分が手掛けた仕事と同じような仕事をしている人がいる。その人はまわりの者たちと協力し合い、苦労はしても喜んで働いている。成果も上がっている。そんな時、ひとりで積み上げてきた自分を思って寂しくなったり、人に恵まれ幸せそうな様子に妬ましさを覚えたり、成果を上げていることを妬んだり ・・・ 
という心の動きが生ずる人もいます。
自分が獲得しようと努力している技術や能力を、自分以上に発揮している人に対して、自分の努力を知っているからこそ抱いてしまう嫉妬もあります。自分はこれほどまで思っているのに、願っているのに、という思いがあるからです。

物や金銭といった形のあるものは何かの方法で自分も手にすることは可能です。たとえ"可能性"であっても、十分ある、と言えます。練習や努力によって獲得できる技能や技術、知識も同様です。しかし、それらではどうしようもないものも確かにあります。喜び、幸せ、愛情、信頼、友情、能力、才能、感性。
この自分の力だけではどうしようもないものが「比較において」与えられていないと感ずる時、人は大きく心をかげらせるのです。嫉妬というひとくくりの感情のなかには、さまざまなものが渦巻いているのです。だからこそ人間にとってやっかいな感情なのです。
うらやましい、寂しい、悲しい、悔しい、情けない、憎らしい、嫌だ、何故だ、自分も欲しい(欲求)、自分もそうありたい(願い、希望)、憧れる。その人が無くしたらいい。嫉妬や妬みに含まれる感情は多岐にわたり、それらはさらに枝分かれして心に根を張ってしまうのです。「人は誰ひとりとして同じでない」ことの喜びが、むしろ「比較によるかげり」として展開してしまっているのです。

これはこの先、あなた方が「人の喜びを自分の喜びとしていく」ことを目指していくうえで、その流れを阻むものとなっています。嫉妬心は誰の心にもあるからです。「比較」で心をかげらせたことのない人など誰ひとりいません。
嫉妬や妬みは地上の人々が越えなければならない共通のかげりだと言えます。人に与えられているさまざまな「違い」は、多様な喜びを共鳴させてさらに大きな喜びと調和をもたらすためのものであると同時に、「与える ― 与えられる」「求める ― 与える」というエネルギーの「交流」が生み出す喜びを地上に満たすためでもあります。
霊界においては、「違い」はすなわち「生きる次元の違い」となって表れ、同じところで共に生きることにはなりません。「違い」を越えて調和して生きるのは地上だからこそ実現可能なことであり、違いを調和させるために「違い」を有する者どうしが同じ地上で生きるのだとも言えるのです

ではどうすれば「比較」において心をかげらせ嫉妬することを越えられるのでしょう。それは、ひとりひとりの「その人」が、必要とされて今ここに生きているのだと知ることから始まります。「自分」がここでこうして「こういう自分」として生きているのは導きあってのこと。自分には与えられている役割があり、それを担って働いていくなかで必ず心満たされ、幸せを実感できる。それは「自分が一番よく分かるはず」。
早くそうなりたい。たとえ今はまだそうなれなくても、幸せや力の発揮や生き甲斐を求めよう。その人に備わったものは神の意志によるもの。誰にも左右できないもの。それが活かされることを願えるようになりたい。たとえ自分にはなくても。多くの人のために役立つことを祈りたい。そう思えるようになりたい。
嫉妬や妬みを自分のなかに感じ、それが苦しい人はこのように思ってみてください。自分の心を醜いと感じ、恥ずかしいと感じているからこそ苦しいのです。しかし、だからこそ越えてもいけるのです。あなたの心は少しも醜くはありません。嫉妬や妬みを越えることは人類全体のテーマなのですから、向き合おうとしているあ
なたは、自ら学ぼう、越えようとしているのです。その意味では一歩先を行っているのです。その「心の姿勢」に大いに自信を持つように。