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 ■1873■「審神(さにわ)についてのメッセージ」 (03.10.17)

古くから、霊界から地上へ向けての働きかけがあったことをあなた方はすでに御存知です。そしてそれ以前は、ごく普通に、人々は自分が地上以外の世界(霊界であり、神であり…)とつながっていることを知っていましたし、実感もできていました。神のこころにつながって、人々が地上に生きている時代ならば敢えて、霊媒を通じてさまざまな事柄を伝えるには及ばなかったのです。

人々が心に喜び以外のものを抱き始めると、当然ながら霊界との通路はせばまっていきます。それまで実感できていた世界、分かっていたことが自分たちから遠ざかっていきます。次第に神のこころとは調和できない人間ごころで生きる時代を迎えていきます。
人間が地上にあって、そこでの人生を全うするのは、神からの喜びのエネルギーを地上において顕現させるためです。よって「何が」人間の目指すべきものなのか、「何を」目的として生きるべきなのか、「今」をどう生きるのか、を地上の人間に伝えるための媒体として「霊媒」が求められました。
しかし、「霊媒」はあくまでも地上に生きる地上の人間です。肉体のなかに魂を宿して生きるところでの限界は自ずとあります。地上的な制約・影響が皆無な霊媒はいません。たとえ、霊媒の意識を霊界側が完全にコントロールしたとしても、必ず霊媒の「脳」を経由しての伝達になる以上、そのフィルターの影響はあるのです。

しかし、伝える内容が、本当にその時々の人々に必要ならば、それは伝えられるべきものとして扱わなければなりません。その見極めをするのが「審神」役です。
その役割に求められるのは、物事を論理的・客観的に見る目です。しかもそれは、そこに自分の感情を入り込ませないだけの徹底したものでなければなりません。地上の人間は、事の大小によらず、自分の感情(都合、好み、思い込み、気持ち)を判断や決断のなかに混ぜてしまいますし、それで言動を左右させています。その点において、理性のみで判断できるだけの力を持ち合わせていなければならないのです。
それらの判断力に加えてもうひとつ、その通信全体に貫かれているものを感じとる霊的直感力が求められます。論理性・客観性とは別のところで捉える"能力"と言ってよいでしょう。霊媒同様、この"能力"は与えられているもの。体質とは言いませんが、審神としての能力だと言えます。これは、理性による判断には限界があり、それを越える部分で感じ取り、判断するために必要なものだとも言えます。
どんな霊界通信であっても、それが間違いのないものだと示す「証拠」を、全ての人が納得する形で示すことはできません。霊界という見えない世界から送られてくる言葉ならば、そこには必ず、発信された次元の雰囲気、発信する霊(霊団)に漂っているもの、備わっている愛情の深さ大きさというものがあるはずです。それは論理性や客観性で判断できるものではありません。

審神をしようというのであれば、その通信の伝える内容については厳しい目で臨むこと、そして公平な目で見ること、は欠くことができない、と重ねて伝えます。
自分が論理的・客観的であると勘違いしている人はとても多いのです。自分を科学的な人間だ、などと言ってしまっている人が、本当にそうなのか、自分では分かっていないのです。判断する前に、自分の気持ちが先に入っていることに気づいていなければ、そこですでに"公平さ"は欠如します。"客観性"も失われます。論理的・客観的に見ようとするならば、まず、「自分」に対する厳しく真摯な検証が必要なのです。
霊媒を通して送られてくる通信には、何らかの地上的な影響が混じってしまう、と伝えました。それを判断する審神に、地上的な「自分」の影響が全く入らないのは難しい。だからこそ、「自分」にも厳しい目を向ける必要があり、それを繰り返しながら臨む者でなければならないのです。

通信の出所がどこなのか、という特定よりも、もっと大事なことはその通信の意図です。それが、神の意志に添ったものなのかどうか、です。
神が地上の人間に求めているのは、「愛情」の顕現であり「喜び」の顕現です。地上において、人間が地上ならではの喜びを実感し、謳歌すること、それが全ての者にくまなくゆきわたっていること、それがもたらされていない者には手を差し伸べ、共に分かち合うこと。
具体的な日々の暮らしのなかで、ただ思うだけでなく実践すること。地上的な顕現とは、形を成すこと、形に表れることです。人を思う心は言葉や行為行動に移してこそのものです。

それらを導こうとするものが霊界通信です(注:本来の)。 「霊界のことを伝えるもの」というよりも、「それを知ることが人々に役立つから」という意図のもと送られてくるものなのです。例えば、「霊界のことを知る」のは、「人々が持っている死への恐怖を払拭し、翻って、地上人生をよりよく生きてもらうため」に役立つからにほかなりません。知ってもらうことそのものに意味があるのではなく、それが人々の何の役に立つのか、それに尽きるのです。

もっとも、まことしやかに真理や愛を謳(うた)っているかのような通信があるのも確かです。人間の持つ、恐れや不安につけ込んで、通信を送ってくる、いわゆる低級霊がいれば、また、人間の自己肯定、虚栄心、優越感というところに入り込んでくる霊からの通信もあります。
一見すると自由に、"楽に"、喜びのなかで人が生きられる希望を伝えているかのようですが、よくよく読めば、そこに「自分中心(ほかの者に手を差し伸べようとする意識がみられない)」、「貢献の放棄(何もしなくていい、全てお任せで大丈夫…)」、「主観的(何事も自分の都合のよいように思いたいように思う、事実をおろそかにする)」といったかげりが見えてきます。きれいな言葉、丁寧な物言いで繕ってはいても、「本来人が地上でなすべき生き方」とは相入れないものがこぼれてくるのです。

人は「現実」をありのまま受けとめ、そこで人としてどう生きるのかどう行動するのかを絶えず問われています。その「現実」を歪めるような勝手な思い方、あるいは、そこで力を尽くすことなく何もしないこと、その姿は、自らの魂の意志と切り離された惨めな姿なのです。
魂の意志とは、この地上で、今の現実のなかで、より正しくより優しくあろうとすること。そのためには自分に課せられた苦しい状況やもたらされる困難を越えて、自分に与えられた場で与えられた力を発揮すること。そこに「喜び」があるのです。

"自分(たち)だけが"嬉しい、楽しい、心地良い、そうなれるような通信ならば、それは、きっと「自分のみの喜び」を求める霊からの通信なのでしょう。
"地上に生きる全てのいのち"に喜びをもたらすような世界にしたい、と思えるような通信ならば、それはきっと、そう願う霊からの通信なのでしょう。
しかしもっと大事なのは、せっかくの通信を手にしても、感動し、喜ぶだけで終わってしまわないことです。
地上に「通信」が送られる目的は、「実践」にあるのです。読む楽しみ、知る喜びのためでなく、論じてもらうためでなく。その通信に心を動かされたのであれば、その内容に沿って生きていく、それが大切なのです。

その意味でも審神は、明確な目的意識を以ってなされるもののはずです。その通信を手にする人々に、何を提供できるかを見極めなければならないからです。
霊界側の意図は、地上の人々を本来の生き方へと導くことにあります。人として正しく人として優しくあること、それが言動に反映されることをです。その意図を汲み取り、自らもそうあろうとしつつ、神のこころに添っていく、それが審神する、ということです。神のこころとは愛であり、「真理」だからです。

そうして見てみれば、審神そのものが「霊界通信」についてのみなされることでないのが分かるでしょう。
たとえ「霊的真理」という言葉など知らなくても、神のこころに添い、自らの魂の意志に従って生きている人は大勢います。その人自身の心と行動に愛情が溢れ、思いやり深い言葉を発しているとしたら、その人は人として十分に優しく生きていることになります。それは「霊界通信」を知っているからではなく、その人の心が、意識が、それにふさわしい次元の霊界としっかりつながっているからです。思うだけでなくそれが行動・言葉に反映されているのは、その次元の霊界からのエネルギーを受け、それを顕現していることにほかなりません。
「霊界」とあなた方はいつもつながっています。ただその時々の心のありよう、あるいは抱いた動機によってつながる霊界の次元が変化もします。邪(よこしま)な動機の先には幽界や暗黒界がありますし、親切や優しさの先には善意に満ちた霊界があります。
とすれば、自らの心の動き、抱いた動機、本音の部分に関しても審神はできるもの、いいえ、すべきものと言ってよろしいでしょう。決して、「霊界通信」という特殊なものにのみ適用されるものではないのです。あなた方の思念・感情・意識全てが霊界とつながっているものなのだから、それがいかなるものかを自分自身に問うこと、自分の心や行動を審神(点検・検証)すること、それでよろしいのです。
「霊界通信」は、霊的なことが決して特別なことではないことをあなた方に伝えたはずです。当然のものとしてそこにあり、全ての人が霊界からの導きのもとにあることを知らしめるものだったはずです。それを読む側の者が、読んだ「自分」を特別なもの、としてしまわない限りは。

地上界はあまりにも神のこころからかけ離れてしまいました。今は、人が人として本来生きるべき姿とも違っています。そのことに気づき、自分たちが、自分たちの意志によって、人本来の生き方に立ち返るため、そのために「霊界通信」は送られるのです。地上界の浄化とは、人が人としての本来の「心」と「行動」を取り戻すことなのです。地上の人々自身の手によって。
あまりにも愛や摂理や喜びから遠い地上界ではあっても、霊界側の私たちはそれを全て受け入れたうえで、こうして働きかけをしています。なぜなら今の地上の酷い状況も、全ては神の摂理・計画・法則のなかのもの、と知っているからです。この状況あってこその喜びが、いずれ地上に満ちることを知っているからであり、それを希うからです。そのために貢献できることを喜びとするからです。

しかし、だからと言ってあなた方が「全て任せておけばいい」などと言うのは違っています。委ねる、ということの意味は、自分たちにできる精一杯のことをしたうえで、もたらされる結果を受け入れることです。何もしないでただの通路でいればいい、道具でいればいい、というのとは違います。
「通路」も「道具」も喜びをもたらすために働くものです。じっと動かないでいること、自らの意志を持たないのであればそれは、部品にしかすぎません。神にとって、霊界側にとってより使いやすい道具、よりよき道具とは、自らがいかに役立てるか、という「意欲」とともに自らの意志により、実際に動く者なのです。それを求める霊界側と心をひとつに合わせながら。神のこころに添いながら。