■1834■「魔(心の闇)」についてメッセージです (03.10.7)
闇もかげりも、本来の霊界にはないものです。愛に連なるさまざまな心を光とするならば、それぞれの心と対極にある心が闇です。光の心は神の御心に近づく方向性を持ちますが、闇の心は神の御心から遠ざかる方向性を持ちます。
"かげり"は、光の方を志向しつつもそれに向かえないという矛盾をはらむ心です。しかし、"闇"は違うのです。光から遠ざかる意志を含むのです。これは「幽界と暗黒界の違い」と同じです。心の"かげり"によって形づくられた幽界は、人間の心の弱さ、哀しさ、未熟さによって成り立つものです。しかし暗黒界は、自ら"かげり"の心に生きることを意志した者が織りなす世界です。
自分の困難や試練を嘆き、悲しむのはかげりです。しかし、他の者も同じような目に遭うことを願ってしまえば、そこには闇が生じます。うまくいかない自分を思い人を妬んでしまうのはかげりです。しかし、その人を陥れたり、失敗のための画策をすれば、そこに闇が生じます。気持ちのうえで人を嫌い、疎んじ、否定するのはかげりです。しかし、何かしらの形(言動)でその人を傷つけ、否定してしまえば、それは闇の心が為せるわざ、となります。不平不満を持つのはかげりです。だからと言って誰かに与えられているもの、誰かが手にしているものを奪うこと、失わせることは闇の心の表れです。その人が求めているもの(こと)を知りながら与えないのはかげりですが、逆のものを向けるのは闇です。
けれども、"かげり"も"闇"も、もとは光なのです。裏返しです。だからこそ、光に還ることができるのです。
闇を否定してみても、それを消し去ることはできません。あなた方が心のかげりを持つ以上、そのかげりはいつ闇にまで深まっていくか分からないからです。しかし、その闇を拓く力はあります。闇もかげりも全てを包んで慈しむ心です。
<<神の御心は全てに対する祝福。かげりも闇も祝福のなかで存在を許されている。しかし、存在を許されている状態(段階)にとどまることは法則に反する。なぜならば全ては進化・向上の道を歩むからである。ということは、存在が許される状態(段階)からの変化・移行はいずれその時期を迎える。地上人類が作り出してしまったかげりも闇も、本来的には人類自らが光に転ずべきものである。ゆえに、かげりと闇を、否定・嫌悪・無視するところを越え、"あるもの"として受け入れる段階を経、解消(昇華)するところまで進まなくてはならない。それが地上人類のカルマ解消であり、地球の次元の移行となる。>>
■1837■「魔(心の闇)」について 補足のメッセージです (03.10.8)
人の心の闇を"あるもの"として受け入れるとは、それを見聞きし、触れたとしても、自らの内にかげりを抱かずにいられる状態を指します。しかしそれだけでは、闇を光に昇華させるには至りません。
闇を抱える人を思いやることができるか。
闇を抱える人を慈しむことができるか。
愛すること、大切にすること、尊重することができるか。
心を揺らさないという段階の次にくるべきものは、このいずれかの思いを向けることができる、という心のありようです。そう思える人はその時点で、見せられた闇を包み込んだことになります。そう思えた人にとってはすでに"闇"ではないからです。(その時点で思いやりの対象、慈しみの対象、愛する対象、大切にする対象、尊重の対象だからです。)これが昇華ということです。
自分の心の闇を昇華させていくには、同様に、まずは自らの内なる闇の心をあるがままに見、"あるもの"として認識することです。闇を抱える自分は誰からも愛されていないのだろうか、と自らに問うのです。答は誰に対しても同じです。
「あなたを慈しむ存在、あなたを愛する存在、尊重し大切にしてくれる存在がいる。それは神であり、霊界から見守る数多くの霊たちである」(「そして、あなたと共に生きている人たちである」)どんな闇を抱える自分であっても、限りない祝福を神から注がれて今を生きている。闇の心を含む自分の存在全てが、神に抱かれている。これが真実です。
いくら否定しても、この真実は微塵の揺らぎもありません。それを信じ、喜び、感謝できた時、こうして生きる自分を喜べた時、闇の心には、光へ向かう方向のエネルギーが賦与されます。
これが昇華です。