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 ■0288■太郎さんの質問に対するメッセージ (02.7.16)

(質問より)引用1・・「霊界の高級霊達がすべて良きように計らってくださっている以上、私達が将来を憂える必要などありません。私達スピリチュアリストは「霊界の道具」として精いっぱい、スピリチュアリズム普及のためにお手伝いしていけばよいのです。それがベストの生き方なのです。」

引用1に対して
確かに「スピリチュアリズム普及(の手伝い)」を生涯の働きとする者はいます。それがその人の"役割"だからです。しかし、スピリチュアリスト(自称する者も含めて)のベストな生き方が「普及のお手伝い」ではありません。いつも伝えているように、スピリチュアリズムに触れ、そこで気づきを得、あるいは魂の目醒めを確認した者は、知り得た霊的知識(真理・摂理・法則)に添った生き方を自ら実践していく責任が生ずるのです。しかしここで言う「責任」とは決して苦しいものでも、重いものでもないはずです。なぜなら、霊的真理を貫いている基本は、「あらゆることは喜びである」「全てを喜びとしなさい」ということなのであり、それに気づいた者が「スピリチュアリスト」なのですから。
ですから、単に「言うだけ」「伝えるだけ」で、ベストな生き方、と言ってしまうのは誤りです。そして、「普及」がその人の「働き」と言うのであるならば、その人は日々の暮らしの全てを摂理や法則に叶ったものとしているかを常に自己点検しつつ、至らぬ部分を変えていくことを喜びとするはずです。「働き」と「自らの暮らし」とを切り離したものと捉えてはなりません。たとえ、「働き」に懸命であったとしても、それ以外のところで、霊的法則に従って生きているのかはいつも問われているのです。

「スピリチュアリズム」に触れたこともなく、その言葉すら知らない者の方がはるかに多いのです。その人たちを思う時、思いやり深い者、自分にとらわれていない者、人のために働き続ける者、正直に人生を生きる者…と、霊的に見て、"次元の高い"生き方をする者はいくらでもいるのです。
「スピリチュアリズムを知ったかどうか、霊的知識を持っているかどうか、が問題なのではありません。

地上に生きるあなた方にとって「ベストな生き方」とは何か。それは、自らの至らなさに気づき、改めていくこと、と同時に、愛情をより広げていこうとすることです。その手段が「働き」であり、「日々の(個人的な)暮らし」なのです。両方を切り離すことなく、そのなかで、より多くの人の喜び、幸せのために自分を役立てていこうとすることです。スピリチュアリズムの普及はそのなかのひとつにしかすぎないのです。

もちろん、全ての者に対し、導きと計らいがあります。それは、あなた方がこの地上で、今回の人生の課題を越え、役割を全うしていくためのものです。導きや計らいのもとで、喜びや幸せを求めて力を尽くしていく。そこでは憂いや心配や不安はできる限りなくす方がよろしい。しかしそれは、全力で生きる、力を尽くそうとする、という前提があればこそです。何もせずに「全て良いようにしていただけるから」と言うのであれば、一体何のためにあなたは地上に生まれたというのでしょう。目的あっての再生です。今、地上に生きている者は全て「目的」を持って生きているのです。ならば、「お任せで何もしない」のは、「霊的真理」に反することになるのです。全てを導きに委ねる、ということを「何もせずに」と混同してはなりません。

神の「道具」と自覚して生きるのであれば、よりよい道具になろうという意志・意欲と、よりよい道具であろうとする日々の努力が必要なのです。それが自己を磨くということです。単に、何も考えず何も意志せず身を任せるのではありません。

(質問より)引用2・・「家庭は人間にとって優れた"愛の訓練場所"ですが、そこで育まれる愛のほとんどは、霊的なものではありません。家族への愛よりもっと価値ある愛は、血縁関係のない人々へ向けての愛です。多くの人々の霊的救いのために働くことこそ、より次元の高い愛の行為なのです。家族愛より「霊的奉仕」の方が、はるかに価値があるのです。」

引用2に対して
まず、「愛」「愛情」に価値のある、なし、軽重という区別はない、ということを伝えます。(もちろん、「次元」の「違い」はあります。)

家庭においては、一般的に、まず父親、母親から、「愛情」を注がれます。初めは、一方的にもたらされ続けます。そのなかで心と体の両方で、「愛情」というものを実感していきます。優しさ、温かさ、安心感、といったものだけでなく、厳しさのなかにも「愛情」があることも知ってゆきます。その意味では「家庭は愛の訓練所」と言えるでしょう。けれども、家庭で交わされる「愛」が霊的価値の低いもの、というのは違っています。
なぜならば、家庭で知る「愛」にはさらに「献身」や「自分以上に相手(子)を思うこと」や「命がけで守ろうとする行為」といった、自分の存在を賭けて貫こうとする「愛」もあるからです。たとえその断片であっても、感じ取ることがあるから、人間は「愛」を限りなく広げ、深め、そして高めていくことができるのです。
人間が地上で表現していくべき「愛」の形・要素は、全て家庭のなかにあるのです。そこで実感し、あるいは知った「愛」を、成長に伴って、どこまで対象を広げていくか、ということなのです。
自分だけにとどめてしまうのか、家族にしか注げないのか、それとも身近な人から、多くの人へと広げられるのか。それはその人それぞれの学びの違い、今回の人生の役割の違い、などによります。

本来は、「家庭」が基本となって、「社会」は実践と応用でした。しかし今や家庭や家族にその「基本」が抜け落ちてしまっています。これは、人類が重ねてきたカルマとその連鎖のためなのです。ですから、家族や家庭で本来示され、伝えられ、実感されるべき「愛」が滞ってしまっているのです。それが夫婦間・親子間・兄弟間のカルマであり、「家族」としての縁を結ぶ大きな理由のひとつとなっています。
「家庭」や「家族」で全ての愛の要素が交わされているところが、この地上で一体どのくらいあるというのでしょう。あなた自身を振り返ってみれば分かります。あなたが育った家庭、あるいは今の家庭・家族には何のかげりもなかった、ない、と言えるのかどうか。まだまだ交わせていない「愛」の要素、表現できていない「愛情」があるはずです。

「霊的奉仕」の対象は自分以外の全ての人です。そこには当然家族の者も含まれます。家族と"他人"とを分けて考えてしまうところに問題はないのでしょうか。深く関わり、生活を共にする「家族」になったのは偶然ではありません。魂の縁によって、と言うことはできますが、地上においては、「(かつての人生で)交わしにくかったように」というような「目的」があります。一方の"気づき"や"学び"のために「手助け」の役をかって出ることが目的でもあります。そしてそれは、その人にとっての学びでもあります。そこでは家族間の愛情のやりとりも、間違いなく「霊的奉仕」です。しかも、それは身近であるが故に難しかったり、やりにくかったりするものです。けれどもそれを越えて、滞っていた何らかの愛情の要素を交流させ、わだかまっていたものをといていくならば、それは「霊的な救い」です。

学びの次元が高まれば、家族であろうと"他人"であろうと、互いにひとりの人間として愛情を交わし合えるでしょう。それは、全てのものがつながっていることや、全てはひとつなのだということが「本当の意味で」分かっているからです。家族愛よりも他人への愛の方が価値がある、と言ってしまうのは、まだ、そのことが全く分かっていないからだと言えます。そして、愛情の要素の全てが揃っているはずの家庭・家族という愛情の場を軽視してしまうのは、実は、それを言うその人自身が、その「愛情」に正面から触れようとできず、むしろ、家族・家庭の外へと意識を向けようとすることによって、(他人への愛の方がはるかに価値がある、と言うことによって)、自らが滞らせている部分を見まいとしているということになります。

あなたが今、家庭・家族との「愛」に満たされ、幸せを実感できているのなら、それは本当に喜ぶべきことです。そして、あなたが満たされているその幸せを、同じように多くの人にも実感させてあげられるよう、もたらしていけるよう、あなたに与えられている場で、できることをしていってください。
 あなたが今、家庭・家族との「愛」に、滞っている何かがあるのなら(どこにどういう問題があるのかは、あなた自身がご存じでしょう)、それを解消に向かわせる努力を始めてください。そう簡単にはいかないでしょう。しかし、それを「愛情」に変えていくことこそ、霊的奉仕であり、霊的救いをもたらすことであり、「価値のあること」なのです。