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 ■0254■「みじめな自分」についてのメッセージ(01.12.27)

今の自分を見、今までの自分を振り返る時、あなた方が最も「嫌」なのは、「自分を"みじめだ"と感じること」です。最も見たくない自分…、それが「みじめな自分」なのです。

  「みじめ」と感じるのは 

みじめさには大きく分けて二通りのものがあります。まず、そこから見ていきましょう。そのひとつは、「自分が汚されてしまった」「汚れてしまった」「おとしめられたと感じた」「尊厳を傷つけられた」「失ってしまった」「奪われた」「できなかった(失敗した)」「拒まれた」「否定された」…と感じた時です。自分自身が傷ついたと感じた時です。
もうひとつは「ほかの人との違いを差異や優劣、と受け取り、劣っていると自分を見た時」です。他人と自分とを比べ、そこに喜べないものを感じた時です。まずそこで「みじめだ」と感じるのです。だからそのあとに、羨ましい、妬ましい、悔しい、恨めしい…、という思いが派生するのです。
ふたつの場合のいずれもが、何によってみじめと感ずるのか、その要因は限定されません。どんなことであれ、"そう感じる"のはその人自身だからです。言い換えれば、どんな些細なことであっても、その人によって「みじめ」と感ずる者もいれば、全くそう思わない者もいる、ということです。

  「みじめさ」を人はどう処理(合理化)するのか

「みじめさ」はあなた方のかげりのなかで最も感覚や肉体に近いものだと言えます。この思いはあなた方の存在そのものを揺らすものとしてあなた方は感じているのです。よって「みじめさ」を直視し、受けとめるのは非常に辛いことなのです。誰にも経験があるでしょう。自分がみじめに感じた瞬間が。その時を思い返してみてください。自分が縮み、しぼみ、小さくなっていくような、目を伏せずにはいられないような、ぺちゃんこな自分であるかのような、何とも言えない感覚が甦ってくることでしょう。できれば思い返したくない。そして、あんな思いは二度としたくない、そういうものでしょう。
人が「みじめさ」を経験して、その思いのなかにずっと身を置くことは到底無理です。だからさまざまな処理を施し、自身の存在を「自分の思い」から守ろうとします。

・「みじめさ」を別の感情に思い替える。
(寂しかった、悲しかった、悔しかった、許し難い、情けない、どうしていいか分からない、羨ましい、恐い)
これらの感情ならば、自分の思いとして見やすくなる。認識しやすくなる。しかし思い替えた感情もまた"かげり"であるために、それは解消には向かわない。

・「みじめさ」そのものがなかったことにする
「みじめさ」を感じた出来事そのものが、なかったことにする。別の感情に思い替えることも難しいのであれば、そのもとになっているものそのものをないものにしてしまうしかない。全く覚えがない、事実として記憶しているが、思い返せない、というように。

・「みじめさ」を感じた要因、それとは逆のものを手にしていく。
例えば、"能力"においてみじめさを感じた時、それ以降の努力によって一定以上の能力を備えていく。"経済的"なところでみじめさを感じ、その後豊かな暮らしを手に入れる。これらは、みじめさを感じたことをバネにして力を発揮し、あるいは努力し、その要因をはね返す以上の喜びを手にした場合である。これは「みじめな思い」がその人の「力」となり「喜び」へとつながったところに意味をもつ。その人にとっては「あの思いがあったからこそ」と位置づけを肯定的なものに変換できるからである。

・「みじめさ」を感じた要因、それとは逆の自分であるかのように
 振る舞ってしまう。

みじめだと感じた時、必ずそれと対になっているのが「本当は〜でありたかった」「〜だったらいいのに」というものである。願ったり望んだりする自分であるかのように振る舞うことで、いつしか自分も、それが本当の自分であるかのように思ってしまったり、そのようにしか振る舞えなくなっていたり、周囲にそう思い込ませようとしたりする。願った自分、望んだ自分だから、その人にとっては「喜び」であり、手放せないものである。よって、なかなか「そうであるかのように振る舞うこと」から逃れられない。こうなると、もとにあった「みじめさ」はもう、ないも同然となり、そのことに触れる機会はほとんどなくなっていく。

  みじめな自分を越えていく

その時々で感じてきた「みじめさ」をまずは直視することです。人間にとって、自分を「みじめだった」と思うのはとても辛く嫌なものだと伝えました。そのくらい見たくない思いなのです。しかし、そう感じたのは確かなのです。自分で自分を認めることができず、どうしようもないと感じることほど悲しく寂しいものはありません。そういう思いをした自分を改めて見、「かわいそうだった」と思ってあげるのです。
それは自己肯定でも自己防衛でもありません。「みじめな自分」を自分が認めてあげる、それだけのことです「私はとてもみじめだった」と目の前の人が言ったとしたら、あなたはどう言葉をかけるでしょうか。それを自分に向ければよいのです。共感する、とは言っても「そうだね、みじめだったね」というのではなく、優しい言葉、慰めの言葉、いたわりや尊重の言葉をかけるのではないでしょうか。ただ黙って手をとり、肩を抱くだけしかできないかもしれません。
自分がみじめだったと直視できれば、そこに理解も受容も肯定もつながります。置かれた環境、状況、条件を同時に見れば、そう思うのも無理はなかった、と思えます。「それほどのことでもないのに」と否定的に見なくてもよいのです。なぜなら、どんな些細なことであっても、本人にとっては意味の大きいことだからです。

  「みじめな思い」を癒していく

人から「みじめだった」と言われることは、感じていたみじめさに加えて、さらに「そう言われるみじめさ」が重なる可能性がありますし、人によっては、その思いそのものを認めることができず、さらに気持ちを歪める結果にもなりかねません。
まずは、その人の環境、状況、条件などをよく知らねばなりません。それを知る、とは本人の話を聞くことから始まるのです。辛さ、悲しさ、苦しさ、寂しさ、と形を変えた感情が込められた話をまずはしっかりと受けとめるよう。そのうえで、最も傷となっている事柄について、はっきりと伝えるのです。「そういう時は誰でも自分をみじめだと思う」「自分ならきっとそうだ」「あなたもそうではなかったのか」と。あとは前述のように、それを越えていけるよう言葉をかけ、手助けしていく。
そして最後には必ず伝えてあげるように。「今のあなたは決してみじめなどではない」「それを越えてきたから今のあなたがいるのだ」「確かに辛い思いをしたが、これでよかったのだ」と。