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  ■1322■いわゆる「うつ状態」について 1 (天地悠々50号より転載)
                                       03.6.11

【病についての通信】 いわゆる「うつ状態」について 1 
気分が落ち込み、元気がない、意欲がわかない。そういった時、あなた方は「うつ的だ」ととらえます。「うつ」という状態へのイメージは、暗い、重い、どんよりとしたもの、というところでしょうか。それらは感覚的なものであり、醸し出している雰囲気であり、心全体の様子でありましょう。しかし実際はその心の状態は"心"だけのものではなく、体と言動も含めてとらえなければならないものなのです。

<うつ状態に陥るメカニズム>
「うつ状態」の始まりは、心に深い傷を負った時から、とだけ言えるものではありません。日々のストレスに耐えきれなくなったから、というだけのものでもありません。「心」全体を見、「心」の仕組みを見ていくなかでこそ理解していけるものです。

☆「うつ」は心の自衛手段のひとつです。
人間(動物も含めて)は、その身にふりかかる危険をその瞬間にかわす「反射」というしくみを肉体に備えています。考え、判断する以前に起きる体の反応です。それは防衛本能とも言われます。それと同様のことが「心」にもあるのです。心は目には見えませんが、確かに「ある」のです。壊れたり、傷ついたり、再生したり、あたかも肉体に表れるかのように「心」においても同様の現象はあります。ただ、肉体と違って物理的な治療はしにくく、"誰の目にも明らか"でないだけに、他からの理解も得にくいものです。

何か大きな衝撃があった時、その痛みや重さに耐えられるかどうかは個人個人に違いがあります。ひとりひとりの「心」が違っているから、同じ衝撃を同時に経験してもその反応に違いが現れるのです。
耐えられない痛みや重みだと感じ取った時、どうするか、どうしたいか。それは「逃げる」「逃げたい」という反応です。
どうやって逃げるのか。体を動かすようにはいきません。しかし同じように、その「衝撃(出来事)」に心を合わせないこと、心をずらして距離を置くことはできます。つまり、「受け入れない」ことなのです。その出来事が現実に起こったことを心では認めず、受け入れないことです。一定の年齢以上ならば理性は働きますから、"頭では"何があったか、どうなったかの理解はできますし、記憶にも残ります。しかし心でそれを受け入れなければ、その本人にとっては「分かってはいるが自分にはそうは思えない、自分はそう思いたくない、もう思い出したくない、終わったこと、なかったことにしたい」と扱う事柄として処理できます。辛く悲しい、苦しい現実に向き合わなくてすむのです。よって「心の痛み、重さ、苦しさ」を感じずにすむ、感じたとしても耐えうる程度にまで軽減できるのです。意識してこういった「思い方」の順を踏むわけではありません。その時々で「心」は自分の心を守るためにそう反応するのです。

いわゆるストレスの積み重ねから次第に「うつ状態」に向かう場合は、この自衛の反応が強くなっていったものととらえてください。
これで嫌なもの、逃げたいものによってさらに傷つき、辛くなることからは一時的にのがれられるでしょう。しかし、この自衛手段を用いたことで大きな弊害も生ずるのです。

☆「受け入れられない(受け入れたくない)現実」とは
心が自分の心を守るために現実を受け入れまいとする、と伝えました。その「現実」とは、どんなものがあるのでしょう。
まず、直接自分が体験したことがあります。
【災害、事故、事件、暴力、虐待、いじめ、失敗、喪失、近親者の死、病気、自らの病気…。】

さらには、陥っている心の状態があります。
【自信が持てない、後悔、自責の念、悲しみ、寂しさ、虚脱感、閉塞感、無力感、焦り、…。】

もうひとつ、直接体験してはいないが見聞きしたこと、があります。
【特に災害や事件、事故の映像、伝聞。あるいは近親者が経験した出来事。】

これらがどう"苦しく""辛い"のかは人それぞれですが、大抵の場合は「心の傷」として抱えつつも、時間の経過とともに、人は日々の暮らしのリズムに自分の心を戻していきます。悲しみや辛さが蘇ることはあっても、次第に自分と現実とをなじませていきます。まわりの支えや自らの努力もあるでしょうし、置かれた状況が「現実を受け入れざるを得ないもの」であれば、人はそこに心を適応させていくしかないからです。それは、日々の暮らしに向き合わざるを得ない環境だったり、「自分が」何とかしていくしかない状態だったり、ということです。

☆現実を受け入れなかった結果は…
そこから先のこと(それ以降のこと)は、その人にとって同じように現実ではないもの、のようになります。まるで夢のなかでのことか、実際に起きているとは思えないこと、とか、そこにいるのが自分ではないかのようだ、とか。現実を受け入れまい、とした時点から、その人と「現実」は距離を持ち、実感のない世界に生きていることになります。「逃げている」のです。

ここに「うつ状態」のもとがあります。「現実」は常に動きや変化を伴うものです。刻々と。しかし、そこに即した心でなく、対応した心でないのなら、「拒否」し、閉ざした、心の状態があるのみです。動きや変化を持たない心の状態は「停滞」です。エネルギー的な高まりは期待できません。むしろ、萎縮の方向性を持ちます。

<症状としての「うつ状態」について>
いわゆる「気分」、心の状態と体調とは一体のものです。体調のみに症状があっても、その「体調」は心の状態を象徴的に示しています。見えない(見せられない・自分でも見たくない)心を肉体のうえに表しているということです。

 
思いたくない
考えたくない
考えられない
分からない  
頭痛・めまい
言われたくない
聞きたくない
耳鳴り

不安、恐怖
怯え

不眠
緊張(受け入れまいとするために) 肩こり
生きる意欲の欠如 どうき 
意欲がない
何もしたくない
現実を受け入れたくない
食欲不振
心を動かしたくない
動かすまい         
自分の気持ちを出すまい
便秘
気持ちを言うまい 腰痛
逃げ出したい
現実は苦しいもの
それを越えて喜びを
と求めることができない
嬉しい方を見られない
寒気・冷え
状況を変えまいとする心
(受け入れていない)
だるい

「逃げたい何らかのこと」に向き合うまいとする心の作用は、単に肉体の活動を停滞させるだけでなく、症状という積極的な形をとって表れます。現実を強く拒むほど、それが肉体にも表れるのです。心が一切を拒むならば、肉体もまた本来の働きをなさなくなる、ということです。
これらの心と体の状態は全て「現実を受け入れないため」のものです。よって、これらを解消していこうとするならば、受け入れまいとした現実を「実感」する必要があります。そしてそれは、心と体の両方でなされる作業なのです。

<現実を受け入れていくために>
「受け入れ難い現実」がどのようなものか、によっていくつかのパターンがあります。しかし、現実を受け入れることによって今の状態を脱することができること、現実を受け入れても大丈夫なこと(それは、周囲の理解と協力と支援とがあるから)、を本人がしっかりと理解し、そうしたいと望まねばその方向に向かうのには無理があります。これはあくまでも、受容や肯定のなかで現実を受け入れていくことを進めようとする場合です。治療や癒し、という意味あいの強いものです。

☆「現実」にあったことによって肉体の痛み、苦しみ、心の辛さを経験した場合のうち、「現実」を作り出したのが人である場合(虐待、暴力、事件、いじめ等)。

その出来事そのものは「あったこと」(事実)として認知できています。が、その時の自分の気持ち、心の叫び、訴え、を「声」や「言葉」にできていない場合が多いのです。そうできなかった自分を責めたり情けなく思う一方で、そうされてしまった自分の肉体(という現実)、痛み(という実感)から自分の意識を切り離したのです。ここではそうされた自分の肉体と、自分の心とをつなぐ必要があります。
「いやだ」「痛い」「やめて(やめろ)」という反射的に出るはずの言葉を思いっきり出すのです。言えない、言えなかったのは状況を受け入れつつも気持ちのところでは、その状況から離れるしか逃げ道はなかったのですから。
本人が心を開いて安心できる人と共になら、この機会は有効に作用するでしょう。その時の自分の感情を取り戻すだけでなく口にすることで、「現実」として受け入れるだけでなく、それを越えることができます。「楽になった」という実感を持つことができます。

☆「現実」は避けられないものだった場合(災害、事故等)

自分は少しも悪くなかったのだ」ということを本人にしっかりと認めてもらうところから始まります。誰かが悪いわけでもありません。その出来事によって経験した恐怖、痛み、苦しみ、悲しみをできるだけ多くの人に共感してもらうことが大切です。誰のせいでもないからこそ、気持ちをぶつける対象がないのです。だから「なかったこと」にするか、「忘れたいこと」にするか、あるいは「全く平気だ」と装うしかないのです。

どうにもならない気持ちの行き場ができ、しかもそれが受容的、好意的であるならば、「ないもの」としてきた「現実」をあったこととして(前提として)、「聞いてもらえる」「分かってもらえる」「同じ気持ちになってもらえる」喜びが実感されることになります。そのなかではもっとその喜びに近づこうと、むしろ積極的に「思い」を出すことができます。その流れに入れば、すでにその人は「現実」を受け入れ、しかもそれを越え始めていることになるのです。

☆自分を取り巻く日常を「現実」として受け入れられない場合

学生であれ、主婦であれ、社会人であれ、「不安」「不満」「心配」の種はもっています。それが実際に自分の今の日常生活に何らかの影を落とし、望ましくない影響が出そうになる時、あるいは出始めている時、その現実から逃げたくなります。対処していく手立てが見つからない、希望が持てない、やってみてもうまくいかなかった、その人にとっての閉塞状態です。

この場合は、その人が実際に「困っていること」を取り除くのが最も簡単な方法です。しかし全ての場合でそれが可能なわけではありませんから、「その人の理解者、協力者」の存在が不可欠です。自分だけが取り残されていくような孤独感や無力感を払拭するために、常に自分のことを気にかけ、必要な時に必ず手助けしてくれる、という信頼と安心を確保してあげなければなりません。気持ちを分かってあげる、というよりも、常に打開策を考え、進んでいくような気持ちを持つ人の存在が必要です。逃げなくても何とかやっていけるのだと思えるかどうかが大切です。何度しゃがみ込んでも側に誰かがいてくれる、その実感が、その人を現実に立ち戻らせてくれるのです。
これとは別に、本人がどうしても「現実」を直視しなければならない場合もあります。過ちを犯してしまった場合、偽りを続けている場合、人を傷つけている場合…。本人が現実を受け入れないがために他へ及ぼす影響が好ましくない場合です。

☆周囲からは明らかな事実であっても本人はそれを認められない場合

認めてしまえば自分はおしまいだ、という強い拒否感があり、自分の全てで現実を遮断します。知らぬふりを通す。無視する。さらにそれを推し進める時は、「全く違う自分」として振る舞います。
そこまでするのは余程の負い目、後悔、自責の念があるからです。自分の間違いを思い知っているし、その間違いに怯えるから必死で逃げる。その現実に少しも触れないようにするために違う自分でいるしかない。この「違う自分」は多くの場合、周囲から肯定的に見られ、評価される自分であり、自分がなりたいと思うのになりきれない自分(理想の自分)です。

こういう人に対しては、「演じる自分」には無理があり本当の自分ではないことを伝えます。「どんな過ちも許される」「自分の過ちは他の誰より自分が一番よく知っている」「それは消すことができない」「周囲からは演じるその人も本当のその人も丸見えである」「気づかないのは本人だけ」「現実の姿、現実の出来事」「このあとどうすればよいのか(楽になるのか)」「どうすれば周囲に受け入れられるか」「どうすれば本人の気がすむのか」「どうすべきか」

本人が現実を認める様子・言葉をわずかでも見せたら、大きく評価します。その一歩が進まなければ誰かが代わりに「現実」の「内容」を言うのです。「自分は〜をした」というように。これは「言葉による確認」です。人は五感を通じて実感をしていくものだから、自分で言う、見る、聞く、触れることの意味は大きいのです。(続く)