■0268■「許し難さ」についてのメッセージ(02.3.8)
いつの人生においてもあなた方が学ぶのは「いかに愛していくか」です。
ほとんどの場合、そうしにくい"何か"がもたらされている、それを越えて。学びの進み具合によって、学ぶ「愛情」の広さや深さに違いはあっても。愛情を向け、交わすことのできるはずの相手とそうできない"何か"。そのひとつである「許し難さ」について伝えます。
誰かに対して「許し難さ」を感じるとき、その前提にあるのは"傷つくこと"です。
怒り、憤り、悲しい、寂しい、裏切られた、否定、拒絶された、…。その内容はいくらでもあります。何かによってあなたが傷ついたとき、そこで「許し難さ」が生まれます。そう思ってしまうのは、ことの大小にかかわりません。受けるあなたの心次第です。この「許し難さ」を「許していく」方へ動かしていくのは容易なことではありません。自分が受けた傷以上の愛情をその人に向けていくことになるのですから。ですが、多くの人たちは、「許す」という気持ちになっていくことができるものです。
それは別のところで人から向けられる愛情(優しさ、親切、思いやり、慰め、励まし、協力、支援…)に次第に満たされていくからです。あなた自身の傷が癒えていく過程、喜びを知っていく過程で、抱えていた幾つものわだかまりやかげりはその固さを失っていくのです。そうしていつしか許していけるようになるのです。
しかし、依然としてそれが変わらないとすれば、それを動きにくくしているものが別にある、と考えてください。それは「自分」です。あなたがあなた自身を許せていない場合です。しかも"その人"にまつわって自分を許せないとすれば、自分ではどうすることもできなくなります。
「"許せない"と思うその人を愛している自分を許せない」。
「"許せない"と思うその人に従がっている自分を許せない」
「"許せない"と思うその人にもっとひどいことをしている自分」を許せない。
人によって対象も状況も違います。自分を「許せない」という言葉ほど強烈ではないとしても「認められない」「受け入れたくない」「悔いている」「責めている」でもエネルギー的には同列です。互いの間のわだかまり、あるいは自分自身のこだわりが大きければ大きいほど、その「許し難さ」は強いのです。許し難さを思う相手が身近であればあるほど解消しにくくなるのです。
ですがそこに必ず「許し」はもたらされます。どんな者であれ、皆、すでに許されているからです。神から注がれる無条件の愛とは許しにほかならないからです。「許す」「許さない」という区別などないほどのもの、
それらを越えているものだからです。
あなた方は「愛情」を知っています。それがどんな形であるにせよ、全く何の愛情も知らずに生きている者などいません。「愛情」を知っている限り、必ず「許し」につながるのです。全てを網羅し、全てを越えるもの。それが愛情です。それを学ぶのが、あなた方の「生きること」であり魂の欲求ならば、必ずそこに「許し」はもたらされるに違いないのです。