教育
教育とは人を枠にはめていくことでも、“規制”によって従わせるなかで知識を“授ける”ものでもなく、「それぞれの者たちが、人との関わりのなかで自分を知り、見つめることを通じて、自分の与えられている何らかの能力に気づき、それをいかしていくための基礎を作っていく場」を提供するためのものであり、それを“教師”が手助けしていく、というものです。そこでは、優秀さを競わせる必要も、点数によって序列をつける必要もありません。「各々が与えられている能力には違いがあって当たり前」という共通の認識のうえにたち、「与えられた能力をのばし、いかしていくことこそが幸せだ」と誰もが思う時、画一化し、点数化し、序列をつけてく、今の教育のあり方は大きく変わっていくことでしょう。点数によって分けることが意味をなさないのであるとすれば、それを、1点でも多く得ようとして、子供らしい喜びや楽しみから遠ざかる必要もなくなります。“学問”(いわゆる勉強)が好きでもっと学びたい、知りたいと思う者はそれを集中的にすればいいのです。しかしそういう子供が全てではありません。物を作ることが何よりも得意な子供も、体を動かすのが大好きな子供もいるのですから。
ただし、社会で生きていくうえで、どうしても必要な知識については身につけさせてあげねばなりません。大事なのは、実際の暮らしを営むうえで、人々が共通のものとして持っているべき知識を身につけさせるということなのです。そこでは必要なことをていねいに、分かるよう、身につくよう教えていく者の存在が重要となります。 単に知識を与えていくだけでなく、ひとりひとりを「ひとくくりの子供」でなく、違いを有する者たち、(そして可能性を秘めた者たち)として見る目を持ってくれる人でなければなりません。人として、人を相手に、共に学び共に喜んでいくことができなければ、子供たちは「好きなことをしているだけでいい」ということにもなりかねません。
つまり、それぞれの子供をひとりの人として扱いながらも、しっかりと人として導く力量を持っていてほしいということです。それは“技術”ではありません。教える側の者の心が、いかに豊かに潤った状態にあり、“心で”関わることができるかどうかということなのです。
今現在の社会の状況を見た時に、こういったことが教育の現場で実現できはしない、と多くの人が思うことでしょう。しかし、今の社会が人々に希望や喜びをもたらすことのできないものとなっているのと同様、「学校」という場は、子供たちが自分本来の心を押し殺して過ごす場となってしまっているのです。何より、学んでいく意欲とは、そこに喜びや夢や希望があるからこそ高まっていくもののはずです。教育の場に、そういったものがもたらされるためには、今の状態を延長していくだけでは無理なのです。
本来の教育の目的を、今一度、見つめ直すことなくしては、どう変えていくかが見えてこないのです。
苦しいのは子供たちだけではありません。彼らを導いていくべき教師もまた、どうにもならない“今”の現実のなかに投げ込まれています。しかも孤独感のなかで。
その意味では、まず教師を“自由な心”にしなければならない、ということです。 彼らもまた枠にはめられ、規制され、指示されるなかでやっていかなければならないからです。その状態にあって、心に豊かさや潤いを保ちながら、いきいきと心を動かすことはとても難しいのです。
子供も教師も喜び合いながら「教育」という場を共有できるようになるためには、「教育」という分野のみが変わろう、何とかしようとしても十分には全体は動いてはいきません。同時に家庭のあり方も、政治・経済の仕組みも変化の時を迎えてくれなくてはならないのです。いつも伝えているように、“社会”における各分野は、それひとつが独自に動いているのではないからです。全てがつながり、絡み合っているからです。
子供のためを思って教育の場を変えていくということは、人のあり方を、社会を変えていくことと全く重なることなのです。