霊界通信 「地上界は本来どうあるべきか」悠々塾ホームへ

 環境(他の生物との共存共生)

この地球という星とそこに生きる生命たちが創られていく過程においては、そこに生きる者(生命)たちの歩みについてのプログラムとして予め設定されています。
そのプログラムに従って、“ひとつ”の細胞で生きる生命から、現在のあなた方に至るまでの生命進化がなされたのです。今では全く何の関わりもないかのようにあなた方が思う、その生命の流れは、全ての生物に“情報(DNA)”として伝えられています。それ以前の生物たちの歩みが、それ以降の生物たちの歩みの基となっているのです。あなた方は、それ以前の(自分たちより発達の度合いの低いと思っている)生物たちあってこそ、の存在なのです。それが、“生命全体がひとつらなりだ”ということであり、生命たちが互いにつながり、影響を及ぼし合っているということです。
目に見える糸で結ばれているわけではありません。あなた方が意識できない生命のつながりなのです。しかし、同じ“人間どうし”であるならば“想像すること”ぐらいはできるでしょうし、実感を伴って心のつながり、人と人とのつながりを思うことのできる人もまた、いるはずです。

あなた方が地上で生きることは、地球という“全体のなかの一部として”生きるということであり、“自分以外の生命とともに”生きるということです。あなたがおこなった行為ひとつでさえも、必ず何らかの影響をあなた以外の何かに及ぼします。たとえその影響が、全体からみて、わずかなことであったとしても、全くの無意味ではありません。生きることは、思い・考え・動くことであるのですから、ひとりの人が生きることで(生きていることそのもので)まわりに与える影響は大きいものとなるのです。それは決しておおげさなことではありません。1枚の紙を使うにしても、一切れのパンを食べるにしても、それが何とどうつながっているかを考えてみれば、すぐに分かるでしょう。
まして今のあなた方の生活は、“大量消費”がベースにあります。それは一方通行の働きかけです。本来“循環”のなかで生きるはずのあなた方は、その輪からはずれてしまっているのです。それは新しい生命の誕生や、再生(新たな環境の整備)を上回る量とスピードであるために、生命全体、環境全体のバランスを大きく崩す結果をもたらしてきたのです。「このままでは〜が絶滅する」「このままでは〜ができなくなる」といった予想が容易につくのもうなずけます。
あなた方の大量消費から生じたものは暮らしの豊かさだけではなく、環境の悪化・環境破壊というものの方が大きかったのだということをしっかりと認識して頂きたいのです。一方通行の働きかけが“循環”のなかにないならば、その行き着く先は、自分たち自身の絶滅であるとも言えるのです。多くの生命たちを滅ぼし、奪い、消費し尽くした先に、希望があろうはずがないのです。思い通りに全てがうまくいくはずはありません。
自分たちに心地良いものを得ようとすることが、果たして全体にとってどういう意味を持つことになるのかを、まず考えねばならないのです。
人間どうしであれば意志の表明や疎通も可能でしょう。しかし人間以外の全ての生命は、(環境全体は)人間に向かって意志を表明することはできません。知力を与えられ、愛情と慈しみの心を与えられている人間こそが、生命全体・環境全体の喜びと調和に向けての(見えない)意志を汲み取らねばならないのであり、それが地上界における人類の役割です。
するべきことと逆のことばかりをし続けているから、そうではない、このままではいけないというサインを、さまざまな形で受け取らざるを得ないのです。
環境全体について考えるということは、すなわち、地上において人類全体が目指すべき方向について考えるということでもあるのです。
ここでも貫かれるべきは、「必要とする者が必要な分、必要な時に」ということです。幾度も伝えているように、これがこの先のあなた方の生き方、暮らしぶりの基盤となるべき考え方です。
生きていく以上、暮らしを営む以上、必ず「消費」はつきものです。“どう”使っていくのかが問題なのです。しかしこれは極端な制限を課す、という意味とは違います。「必要な」という言葉に込められるのは、“我慢”ということだけの堅苦しさ・息苦しさだけではないのです。当然、「心の潤い」はあって良いのです。それが環境全体、生命全体に対しての偏った働きかけ(特定のものを捕りすぎ、採りすぎること、特定のものの過剰な排出等)でさえなければ。
あなた方が“安心して”暮らすということは、環境を作り変えたり、思う通りに動かしていくなかでは得られません。環境とは自分たちを含む生命全体のことなのですから、それら本来のもつ健やかな姿のなかに生きてこそ、初めて“安心して”暮らすことができるのです。あなた方が皆、本来持っている、“生命に対する慈しみの心”を取り戻していくこと、それが求められているのです。自分たちが愛し愛されているという喜びを知ることは、他の生命たちに対しても、共に生きる喜びの心を向けていくことができるとも言えるのです。