経済
経済とは、“物”の流れ、“金銭”の流れを示します。
あなた方が目指すべき社会のあり方は、「ひとところに偏らない」「全体にいきわたり、循環する」ものなのですから、それが具体化されたものが物の流れと金銭の流れだと言えます。さらにあなた方の意識の次元が進めば、“力”を有しながら実は実体のない金銭はその必要性をなくすでしょう。なぜなら、金銭に“置き換える”必要がなくなるからです。必要とするところに、必要なものが必要な分いきわたることが確立していれば、「何かを置き換えて形とする金銭」の必要性はなくなるのです。
それは“物々交換”的な発想ではありません。
生産される物も、エネルギーも、そして“働く”ということも全体に対してなされるものであり、全体のものであるのだから、それは誰かが、どこかが、所有するものではない、ということに変わっていくからです。もちろん共有ということとも違います。そこに存在するもの全てが誰かのものではない、ということであり、必要とする者のために使われればよいのだということです。作られた物も、人の働きも、「必要とする人に」貢献するためのものだからです。
さまざまな“物”の流れ、“エネルギー”の流れを握るのは“金銭”ではなくなります。「それを必要とする人」と「それに対する貢献」です。
今のあなた方を強く縛っているものが「金銭」です。それを得るために心を貧しくし、あるいは縮め、さまざまなものを手放し、犠牲にしています。「金銭」という“置き換えられた喜び”を手にするために「心」という“本質的な喜び”を手放しているのです。今の経済のあり方が、「金銭」を仲立ちとして成り立っているからこそ、それに踊らされ、それに従い、振り回されることになっています。置き換えることの便利さが、本質を失うことにつながってきたのです。
本質でないこの、金銭というものが、偏りや集中を具体的な形として示すものとなっているのですが、実は実体のない金銭がそれぞれの人と人との差異を表し、国と国との差異を表しているのは、何ともおかしなことなのです。
“違い”を認めながらも、その人の力に応じて働きをなし、全体の喜びや健やかさに貢献していく社会においては、“差異”という偏りや集中は全くそれに逆行するものです。金銭によって表現されてしまう“偏り”や“集中”は全く意味をなさないものなのです。まして、金銭によってさらに金銭を得ようとすることが、いかに本質からずれていくことか。“貢献”ということなしに単に「ふやすこと」に喜びを見出そうとすること、喜びを得ようとすることが、今の経済のかげりを最もよく表しています。蓄えること、さらに増やすことは、とどこおりと偏りと差異を大きくすることそのものです。
「必要なときに必要な物が、必要とする人に必要なだけ」ということが確立されれば(それが社会の、経済の、基本理念となれば)多くを得ようとすることもためこもうとする気持ちも、自ずとなくなっていくのです。
人々の気持ちは、「安心」あって、やっと安定します。現実化するのは理念の定着と同時進行のことなのです。