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 農業、農法

  <農業>

地上に生きる人々はその身を養うために、どうしても食物の摂取は欠かせません。単に空腹を満たすというだけでなく、目的は健やかな体を作り、また、維持するためです。健やかな体とは“病気をしない”ということではありません。いきいきとした状態にあることを指すのです。
心に思ったこと、意志したことを表現していくための肉体、それは決しておろそかにできないものなのです。ということはつまり、その肉体にとって欠かせない食物を生産する農業は、地上に生きる者たちを根幹から支えるものだと言えるのです。人々の暮らしを支える基本・基盤として農業をとらえなくてはなりません。今の社会、特にこの日本においては年を追うごとに農業は軽視されてきています。健やかな心と体で人々が生きることを目指すのであれば、このままの見方・扱い方であっていいはずがありません。

農業は、人の体の基本となるものという意味においてだけでなく、国土そのものに関わるものであるという意味においてもまた、その国の基本・基盤だと言えます。農業(ここでは、いわゆる近代農業でなく)とは、いかに豊かな土を作るかによって、その結果が現れる行為・職業です。土を豊かにしていくことは、その土のうえに生きる人々、その土の上に建つ国を豊かにしていくことにつながるのです。ここで言う“豊かな土”には、具体的な“成分”や“微生物”だけでなく、目には見えないエネルギーがふんだんに含まれています。土を耕し、作物の成長を喜び、慈しみの気持ちで関わる者たちの心のエネルギーが、そして収穫への感謝と喜びのエネルギーが、そこには込められているからです。
そういった土、そういった心で育てられた作物に囲まれたその国は、安定した穏やかなエネルギーに包まれ、満たされていきます。豊かな土や豊かな実りから発せられる“豊穣”のエネルギーは、人々の心に充足感をもたらしますし、いきいきと成長する作物からは、意欲や希望のエネルギーが人々の心にもたらされるのです。

これらのことは、“輸入”という手段によっては得ることは困難です。栽培、生育の条件等でやむを得ない場合は別としても、“品物”“商品”として農産物を持ち込むことは、その国の“土”を“農業”をやせ細ったものにしてしまう可能性が大きく、それによって、本来人々にもたらされるはずのさまざまなエネルギーはふくらんではきません。
これは閉鎖的な農業の姿を意味するものではありません。自分たちの身を自分たちの国で養えなどと言っているのでもありません。あくまでも姿勢の問題、あるべき姿の問題です。気候風土により、自らの国民の身を養うに足りない国はいくらでもあるのですから。

それぞれの国で、地方で、それぞれに必要な分の食物が手に入ること、それを基本として、補い合っていくことは可能です。「財力にものを言わせて偏りを生じさせる」ということを解消していこうとするならば。必要な分を必要な者が手にすること以上に“集めること”“ためこむこと”を卒業すれば、新たな展望は開けます。しかしそれだけでは不十分です。全ての人々に“必要なだけ”がいきわたるには、やはり一定の収量はどうしても必要なのですし、それを確保していくには、現在の農業のあり方、農法では無理なことだからです。
そのためにこれからこの先は、心の力を存分に発揮しつつ農業を営む者たちが増えてくれることを期待します。物質的手法の限界を超える結果がもたらされるはずです。肥料・農薬・改良によらずとも、人々に喜ばれるものを、人々が喜ぶに足りるだけ生産していくことは可能なのです。

  <農法>

現在までのあなた方の農法は、「収量を高めるために、その手段・補助として、科学的なこと、物質的なものを取り入れること」によって“進歩”してきました。いわゆる品種の改良や、薬剤・肥料等の導入です。また、機具や施設の充実によって、合理性や生産性も高めようとしました。
これらのことは、もちろん一定の成果をあげてきました。しかしながらこの方法による限界もまた見え始めています。“豊かな土”がやせていくこと、作物本来の力が失われていくこと、偏った生産、需要と供給のアンバランス・・・。人々の身を養うべく進歩・発展してきたはずの農法が、必ずしも、豊かな実りを約束できるのかと言うと、そうとばかりは言えない現実があります。

この先、社会全体の仕組みが変化し、物質やエネルギーがひとところに集中せず、全体にいきわたるようなシステムが確立したとしても、人々の暮らしを支える基本である食料の生産や供給が、それに見合うだけ確保できなければ、やはり、人々を十分に満たしていくことは難しくなります。
そのためにも充実した農業はどうしても必要ですし、そのためには農法にも、変化が求められるのです。

物質を投入することの限界と弊害についてはあなた方はよく知っているはず。ならば、それ以外にどんな方法が考えられるのでしょうか。それはやはり、“農”に携わる者たちの心のエネルギーなのです。それを実際に行う者が初めは少なくとも、少しずつその数が増すことで、作物や土に及ぼす影響は倍増するのでなく、大きく増幅されます。そして、農に携わる者たちの当たり前のこととして「心の力を使うこと」が定着すれば、そのエネルギーは“育てられるものたち”全体に作用するのです。
土を作っていくにあたっては、そこに生きる微生物を意識してください。小さいながらも膨大な生命たちの数がそこに存在するのです。その彼らへ向けていかなる心を向けていくか、その土に触れる者たちがどういう心で作業するかが大切です。
これからしばらくの間、種を育む場となり、それを支え、やがて収穫という大きな喜びをもたらしてくれる基盤となっていくもの、それが“土”なのですし、それを形づくっている生命たちなのです。いかに小さな存在であろうと、彼らの共鳴する力に対しては、深い感謝の念を捧げて頂きたいのです。彼らが作る世界によって、またそこから発されるエネルギーによって、作物のみならず、その土地に生きる人々の生命を支えてもらうのですから。彼らの休みない営みが、絶えることのない生命の源となってくれているのです。

作物を育てる過程においては、それらに対して「大きく育ってくれるよう」という願いを持ち、日々言葉をかける、というだけでは不十分です。なぜなら、育てられる作物は、育てる側の心の状態を反映するからです。育つ者と育てる者とはつながっているのです。たとえ人間どうしでなくとも。作物と人間であっても、です。ですから、その人が日々どういう心で生きているか、暮らしているか、また、人とどう関わり、どんなやりとりをしているかが作物の状態に反映される、ということなのです。
不平不満の多い人は「満たされない」というエネルギーを発していますし、何らかの悩みを持っていれば気持ちは沈んでいます。それは作物の“充実”や“活力”に直接影響するのです。逆に、暮らしのなかに喜びを見出している者や、人とのやりとりに幸せを感じている者は、喜びや幸せ、充足、活気というエネルギーを放っていますから、作物も、それに応じて力強く伸び、しっかりと根を張り、いきいきと葉を繁らせます。育てる者と育てられる作物との関係性は、親と子のようにたとえることができるのです。育む場(土:家庭)において慈しみと愛情を注げば、のびのびとおおらかに育っていく、ということなのです。

ここで伝えているのは「心の力をどう向けていくか」「どう注いでいくか」によって、どんな影響が作物にあるか、ということです。もちろん、物質的な補助によって、その作物をより大きく育て、品種を選ぶことによって条件のよい成果も得られます。しかしその作物に込められる心のエネルギーは、作られた作物が発するエネルギーとなるのです。それが人の口に入り、その人にとり入れられる時、そこに込められるエネルギーも当然のことながら取り入れられ、その人の“心”に影響します。食べ物がその人の心を全て作っていくということではありません。それを調理する者の気持ち、また、食べる者本人の気持ちもあるのですから。しかし、「健やかな喜びの込もらない(むしろ逆のエネルギーをもつ)食材」を「喜びのない心」で作り、「喜びのない気持ち」で食べた時、その人の心と体とが健やかさを保てるのでしょうか。

“食”という視点でみれば現代のあなた方の“食”は、貧しさを増す一方の傾向にあることに思い至るでしょう。それは“ひとつ”の要因のためではなく、生産から始まって食する者の状況と心に至るまでが、「喜び」から遠いからなのです。だからこそ“食”の始点である“農”から、そこに込められるエネルギーを健やかな喜びに変えていくことが求められているのです。
一方、食する者の心、調理する者の心は、その人の生き方、暮らしぶりのところで変化を迫られているのです。それが同時に進行していくことが最も望ましいのですが。

収穫という最終的な段階では、この先、人の口に入り、その人の食欲を満たすだけでなく、食する喜びをもたらすことのできる喜びをぜひ感じて頂きたい。そしてさらに、そういった人々の心と体の健やかさに貢献できることを喜びとして頂きたい。その働きを共に担った作物に感謝を込めながら。