男性の役割、女性の役割
“人”はなぜ“男”と“女”とに分かれているのか。霊界においては、男性的、女性的というエネルギーの傾向の違いがあり、その魂の傾向として“男性のような”“女性のような”という認識もあります。しかし地上のような「性差」というものはありません。
地上とは、具体的な“喜び”を共鳴・融合し、形として表現し実感する場です。生み出される喜びは、共鳴させあうものどうしの傾向がちがうほど、幅があり、大きいものとなります。
私ども霊界の者たちよりもさらに次元の高い、“神”と呼ばれるところから注がれるエネルギーは「完全なるもの」です。全てを含み、全てを融合させ、しかも全てを越えているのです。そのエネルギーは次元を下げ、変換されながら霊界へ、地上へと注がれているものです。
あらゆる次元のあらゆることは、その大いなる意志(神)の「顕現」なのです。よって、その次元が下がるにつれて、担える要素は細かく分かれます。つまり、地上界は、そのままでは、注がれるエネルギーをそのまま表現するには、あまりにも粒子が粗い次元だということです。よって、注がれているエネルギーをまず、大きくふたつの傾向(摂理と愛)とに分け、それを性差として表現し、担わせたのです。それが男、女という“形”となっています。よって“傾向”から言えば男性は、論理性・客観性・全体性を重んじ、女性は、感情・感性・自分や個人という部分性をその考えの重心とします。
しかしこれはどちらが良い悪いではなく、あくまでも傾向の違いのはずでした。それらを共鳴・融合させることで、真理と愛とに根差した、力強くしかもやわらかなエネルギーを人々が放つことができるはずでした。
ところが、本来のそういった“あるべき姿”から今はだいぶそれてしまっています。男性は「自分の本当の心」から遠ざかったり、それを見せまいとするために論理を使い、また女性は「自分の気持ち」を思考の中心に据えているために、客観性を欠いている、というように。補い合い、共鳴させることでさらに喜びを広げるはずのもの(要素・傾向)を、今は“自分の気持ち”の補強のため、“自分の気持ち”を守るために使ってしまっているのです。それは心をさらに広げていくことではなく、あらゆるものを自分へと集めようとするエネルギーとして作用しているということです。 本来、それぞれの“輝き”であるはずの「傾向の違い」が今は“かげり”の増幅のために作用してしまっています。互いの“嫌なところ”“特有のもの”として、嬉しくない要素として認識されてしまっているのです。“人”が男性・女性という性差と、それにまつわる傾向を持つことの意味を、具体的に理解しようとすれば、「子育て」について例をひいてみることが適切です。
本来、両者の肉体的喜び、心の喜びの結果として新しい生命がもたらされます。その生命は希望・期待・喜びをもって迎え入れられます。そして受容と愛情のエネルギーを受けながら地上で生き始めます。成長していくにつれて、その子には「人としての正しさ」「人としての優しさ」が教えられていきます。そしてその“正しさ”について、力強くしかも厳然たる姿勢をもって諭していくのは、男性である父親の役割です。伝える言葉に込められるエネルギーには「摂理」「真実」があるからです。そのエネルギーは男性がもつ“特有の”ものです。
同じように、“優しさ”について、愛情深く、しかも慈しみの心で伝えていくのは、女性である母親の役割です。実際の振る舞い、働きかけ、そして言葉に込められるエネルギーには「情愛」「慈しみ」があるからです。そのエネルギーは女性がもつ“特有の”ものです。
こうして二人の協力と協調によってその子は正しさも優しさも知る、「人として」成長していくのです。
地上において何かを成そうとする時、何かに働きかけようとする時、一方に偏らず、全きエネルギーに近い゛喜び゛のエネルギーをもってすること、それがこの地上を健やかなものとしていくからこそ、分かたれた両者がともにいるのであり、「別々に」ではなく「一緒に」生きているのです。
これは“人”だけではなく動植物にも雌雄の違いとして担わされています。動物においては、役割分担として表現されてはいますが、そこに込められるエネルギー傾向を“両方”受けて、彼らはそれぞれに繁栄し、あるいは滅んでいきます。植物はその霊的進化においては「動物」よりも次元が低いので、基本的エネルギーとして、雄はその傾向である拡散・解放というものを担い、雌は保存・継承という傾向の働きを担います。
動植物から発されるそれぞれのエネルギーは、彼らの間で交わされているだけではありません。この地球全体で雌雄という異なる傾向のエネルギーがそれぞれ共鳴し合い、またお互いにも共鳴するということは、大きくふたつに分かたれたエネルギーが、全きエネルギーを地上において顕現するために、そして顕現できること(つまり健やかな状態になるということ)を目指して歩んでいる、ということなのです。
ひとつの存在で全体を表現できるほど、次元の高い生き物はいないのです。そこにはもちろん人間も含まれています。
互いの輝く部分をありのままに表現し、それを喜び合うことができれば、それぞれが人としての幸せを実感できるだけでなく、男としても女としても幸せだと心から思うことができるでしょう。