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 エネルギー・資源(石油・原子力)

あなた方の暮らしが、今の“大量消費”のスタイルを崩すことなく続けば、その先にあるのは破綻です。
エネルギーとは本来循環するもの。形を変えながらだとしても。資源とはそれによって人々に喜びをもたらすべきもの。形を変えて。そのいずれもが使われる目的は“喜び”のためであるが、それが一方通行、使いっ放しであってはならないのです。
今の“大量消費”を支えている、資源・エネルギーと言えば「石油」です。これがあなた方人類にもたらされたことが、現在の暮らしへとつながったと言っても過言ではありません。地上界ならではの“もの”“かたち”を担う、重要な位置を占めるもの。もはや石油なしにはあなた方の今の暮らしは考えられはしません。“ひとつのもの”に依存してしまうことの恐ろしさを、あなた方は意識に置くことができていません。それに加えての大量消費です。そこから得る恩恵に預かれば預かるほど、その重さは増していくのです。その、あなた方の姿、依存と消費。かつて、自分たちの身を太らせ、食への依存とその消費に追われ、その身を滅ぼした者たちの姿。そこに見られる共通点はさらに、柔軟な対応のできなくなった暮らしのスタイル、自分たちの生きる力そのものが弱まっていること、さらには、地球全体の生命の輪から、自分たちがはずれてしまっていること・・・があげられます。あなた方と恐竜たちの姿です。

地球という星にすでにあるものは、あなた方が独占すべきものではありません。それを見つけ、その用途を考えたからと言って、それが“独占”“消費”の理由にはならないのです。もちろん与えられたものをいかし、そこから喜びを生み出すことは自然な流れのなかのことです。しかしながらそれと同時に危険性、廃棄物、排出(物)などによって、“かげり”を生み出すのであれば、それは考えなければならないということなのです。
現実のあなた方の暮らしは、エネルギーや資源なしには成り立ちません。今の段階では、どうしても形あるものを“エネルギー”として変換し、資源として活用せねばなりません。(それを否定することはできない、ということです。)けれども、あなた方の今の“使い方”についてはこのままでいいはずはありません。今の経済・産業の発展は、あまり必要としないところにすら、エネルギーや資源を注ぎ込むことでなされたとも言えます。「どうしても必要な」ことのためにそれらが使われるのは当然のこと。なぜなら、それによって多くの人々が救われ、あるいは改善を見、喜びを得ていくからです。けれども、あらゆること、あらゆるところの“隙間へ、隙間へ”と入りこむようにして広げられてきた“消費”のスタイルは、“余裕”や“潤い”や“豊かさ”と取り違えられてしまうものです。
それは人々全体に喜びをもたらすどころか、逆に、収拾のつかなくなった広がりによる破綻をもたらしかねないのです。

必要とするところに、必要な時に、エネルギーは十分に供給されて然るべきです。しかし、それがあまりにも“個人的すぎる”ようなところ、その時々の気分のために使われることが(ひとりだけではすむはずもなく)、一般的になるからこそ際限なく“必要であるかのように”思ってしまうのです。大昔の暮らしに戻りなさいということではありません。しかし、本当に必要なものと、“何となくあるから必要だと思っているもの”とではその意味の違いは大きいのです。その両者に同じようにエネルギーを使うことは非常に大きな過ちだと言えます。「足りなければ作ればいい」ということを続けていく先に、満ち足りる、ということはないのです。

そしてそれを得るために、今のあなた方が手にすべきでないエネルギーまでも持ち出すことは危険極まりないことです。多くの危険性、不安や犠牲という代償を払ってまでして手に入れなければならないエネルギーとは、供給先で、一体どう使われているのでしょうか。それが「どうしても必要なもの」として求められているのでしょうか。
これから目指すべき地上界にとって“原子力”というエネルギーは必要ではありません。
消費の仕方も物の生産(供給)も、人々の暮らしぶり全てが変わっていこうとする時に、“物”や“金銭”を追い求める傾向は薄くなっていくのです。それに伴って、過剰な(今のような)エネルギーの需要は必ず減少する動きを見せるのですから。

加えて、人々はいずれ“目には見えないエネルギーの作用”を手にすることになります。そこではたとえ“原子力”というエネルギー源がなくとも十分にやっていけるのです。ただし、“見えないエネルギー”を人々が手にできるのは、物やかたちにとらわれない心と実際の暮らしが始まるのと同時進行ですから、「今のエネルギーの代替を確保してから人々が変わっていく」という虫のいい話にはなりません。
自分たちのあるべき姿に近づこうと意志し、心を動かし始め、それを行動に移し始めてこそ、もたらされる喜びなのだと言えるのです。

“資源”についても“エネルギー”と同様のことが言えます。「見えないエネルギー」はそこから“物質化”という変換の過程を経て“かたちあるもの”にすることができるのです。「必要なものを、必要とする人に、必要な時に」いつもながらのこの認識のうえに立てば、そのために“物”を動かして(配分・供給して)いくことになります。しかしそこで不足があれば、そういった時こそ、その“見えないエネルギー”によって物を作り、喜びを生み出していくことができるのです。エネルギーは形を変えても、人々に喜びをもたらすことができるのですから。