労働(仕事)
本来あなた方は何らかの目的をもって地上に生まれています。それは、自らが抱えている課題をクリアする、ということだけでなく、全体へ向けて、何かしらの貢献をする、ということです。これを“働き”“役割”“使命”などと言います。そしてその内容は、その人の持つ能力、与えられ備わっている力を発揮していくことと重なるものです。それぞれの者が、その力に応じてそれぞれの場で“働き”を成していくこと、それが地上界を日々動かしていくことになるはずなのです。
もちろん今は、そういった状態には程遠く、「労働は暮らしを営むための手立て」となっています。なかには「自己実現の場」とできている人はいますが、それもごく一部の限られた人のみのことです。ほとんどの人は、対価を得ることを目的として“働いて”います。そのために“自分の心”を押し縮め、押し殺している人の何と多いことか。しかし“暮らしていくため”にはどうであっても「働くほかない」のだと誰もが思っているのです。
人々が物質的に豊かになることを追い求めていた時期は、今よりは喜びがありました。そうなっていくことの喜びがあり、得ることの喜びがあり、次への意欲もあったからです。しかし、“物があること”がごく普通のこととなった今、一体人々はどこに喜びを見出そうとしていくのでしょうか。この先の見通しはどう見ても“希望にあふれたもの”ではなく、むしろその逆だと言えます。
現在、仕事を手にしている者は、「いつどうなるか分からない」という不安のなかにいます。これから仕事に就いていこうとする者は、「とにかくどこかに」と、仕事を手にすることそれが目的となっています。しかしそればかりではなく、初めからそれを放棄している者すら現れました。そして“失った者”も。
誰もが「働くこと」に希望を見ることが難しい時代なのです。けれども誰もが、「自分をいかしたい」「自分を役立てたい」という思いを潜在的に持っているのも確かです。
“労働”が対価を求めるものである限り、得られる“対価”が少しでも多い方が良い、と思い込んでしまうのは無理もありません。社会全体の仕組みが、「少しでも優位に」「少しでも多く」と求めるようなものになってしまっているからです。しかしここで、これまで伝えてきたように、人々が安心を手に入れさえすれば、本当の心に従って、人に役立ちつつ自分も喜んでいけるような“働き”に自分を向かわせることができるのです。人々が手に入れたい「安心」とは、(いつもながら)「必要とする時に、必要なものが、必要な分与えられる」というシステムであり、それが現実化することです。
それぞれが自分の力を発揮しつつ“働きを成す”ということは、つまり、さまざまな形で必要なものを満たし合うということです。物を作ることにたけている者、考える(あみ出す)力の秀でた者、人の世話をすることに喜びを感じる者、作物を豊かに実らせることのできる者・・・。人の数だけ発するエネルギーの種類があり、それがそれぞれの人の傾向を示します。そのエネルギーが顕著だということは、それを役立てる事柄も自ずと決まってくるということです。発するエネルギーがその“働き”を広げ、スムーズなものとするのです。だからこそ力を発揮できるのだとも言えますし、その人にとって喜びなのです。その人の持つエネルギーをありのまま出すことができるのですから。
こういった“働き方”がすぐ一般化するかといえば、それはすぐにとはいかないでしょう。しかし、自分の歩むべき道の見えた者、自分はこうやって役に立っていきたいと自覚する者、こういう夢をかなえたいと思う者、そういうあなた方が、それを貫くことにより、状況は変わります。なぜなら、自分を役立てていくことを喜びとし、それを働きとしていく者は必ず導かれ、そして必ず守られるからです。何より生きる幸せを実感できるのです。そうやって生きるあなた方を見た人は、「自分もそうありたい」「自分にもできるかもしれない」「自分もそうしてみたい」という心を動かし始めるはずです。幸せに生きる人こそが、“働く”とはどういうことか、“働き”がいかに幸せにつながることかを実際に示すからです。
いきいきと“働き”を成していく者は初めは極めて少ないでしょう。けれども、一粒の種からたくさんの実りが得られるのと同じように、そうし始める者が今、どうしても必要なのだということ、そしてそれが全体を変えていくことにつながるのだということを知って頂けますよう。