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 なぜ病気になるのか

病とは、それを見る視点によっていくつものとらえ方ができるものです。細菌の侵入、遺伝子の異常、(化学)物質への反応などという見方は、物質的なところにその原因を見た場合です。しかしそれについて、「では、どうしてそうなるのか。」という疑問への答えは得られません。
人の体とは、人の心(意識を含む)を“表現するもの”です。地上に生まれた人、全ては、心をより健やかに、より愛情深く、より喜びに満たされるよう、ということを目指して生きます。しかし多くの場合、それはすんなりとはいきません。なぜならそうなりにくい部分、そうなっていくのを妨げてしまう気持ちがあるからです。本来人としてあるべき姿を知りながらも、それとは矛盾している“心のかげり”を持っているからです。
その“かげり”とは実に多岐にわたります。しかしいずれもが、その人本来の心(魂の意識)にそぐわないものであるという点で共通です。今回の人生で成さねばならない働きや越えねばならないテーマ、それらに反するものがかげりとなるのです。
その“健やかさとは逆向きの心(エネルギー)”は、心に抱いているだけでなく、肉体にも表現されます。その現れ方が、主に病という形をとるのです。
しかしその“健やかさとは逆向きの心”が、「心がけの悪さ」とか「良くない気持ち」だということではありません。
例えば、極端な遠慮、気のつかいすぎは、「本来素直に、おおらかにあるべき」というテーマを持っている人には“かげり”となりますが、今回の人生で遠慮する気持ちを知ることや、人並み以上に細やかな気づかいをしていくことをテーマとしている人にとっては“かげり”とはなりません。要するに、その人それぞれ、何が「かげり」となるかは違うのです。それは、それぞれの人の魂が違う段階にあるからであり、学ぶ内容や生まれた目的が違うためです。けれども、人としての正しさを貫くことや、人へ向けての愛情を素直に表現すること、という共通項はあるのであって、そうはできない部分がすなわち“かげり”となるのです。

肉体に反映された病と向き合うなかで、大抵の人は自分のそれまでの行為・行動・心と向き合うことになります。まわりの者についてもそれまで以上にしっかりと見始めます。その病が命がけのものであればなおさらそうなります。本来はそこまでいかなくとも“気づかねば”ならなかったのです。しかしそこで改めて自分の人生・生き方に問い直すこと、思い直すことができれば病を得たことの意味があったということになるのです。
「さてあなたは、どうだったのでしょう」「どうしますか」という見えない問いかけに、しっかりと応えていくことができる時には、治癒という結果や安らかに地上を去ること、がもたらされます。

病はあくまでもそれを心の変化の契機としてもらうための“きっかけ”なのです。 しかしほとんどの人は病を得たことで、それまで以上に心をかげらせることになります。
死への恐怖、病そのものへの恐れ、さまざまな症状に対する不安、不快感。それを重ねるほど、かげりは深くなり、やがて抜けきれなくなっていきます。
見出せる限り(たとえささいなことであっても)生活の中に喜びを見出すこと、いろいろなもの、ことへの感謝の気持ちがわいてくること、この先の人生での新たな希望、そういったものを抱くことができるかどうかが、病を得ること、そしてそれを癒すことの鍵を握っているのです。

病を恐れることはありません。それまでの自分の不十分さや至らなさと向き合い、それまで以上の喜びや感謝に心満たされていくことで、その原因となるものが消えていくのです。

先天的な病・遺伝的な病の場合は、上述したこととは少し違う意味あいがあります。その病を背負うことそのものが、その人の人生の目的そのものと重なる場合が多いことと、さらに、本人のみならず、まわりの者・つながりのある者にとっても、その病が大きな意味を成すからです。共に心を合わせて互いに喜びを生み出そうとしていくこと、それはたやすいことではなく、しかしそれを成し得た時は、多くの人々にもその喜びを広げていくことができるからです。