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 臨終、通夜・葬式

臨終とは、魂が肉体から離れるその時のこと。それは新たな世界への旅立ちであり、新たな“生”の始まりでもあります。地上的な“死”の意味を知るならば、その時を迎えている人を何としてでも地上につなぎとめておこうとはできない(しない)はずです。
その時、本人の魂がスムーズに肉体を離れることが、本人にとって最も嬉しいことなのですから、まわりの者はそのための“見送り方”をしてほしいものです。向けるべきエネルギーは感謝であり、いたわりであり、ねぎらいです。そして新たな世界での新たな歩みに対する希望です。霊界に戻れば、地上的な“しがらみ”や“制約”から解放され、その人にふさわしい喜びの世界で生きるのです。ですからそこで、その人が、本当に幸せであるようにと願ってあげてほしいのです。
強く引き止め、その人への強い執着のエネルギーを向ければ、その人のスムーズな移行を阻むことにもなりかねません。

通夜及び葬式とは、そこに集う人々がどういう心をもってそこにいるのかによってその意味が大きく変わります。“形”はいかようでもいいのです。地上にいた時に、そういった“形“に強くこだわっていた人はまた別として、ほとんどの人にとって、その形式は何ら影響を及ぼしません。
大切なのはそこに集う人々の動機です。義理で行くのか、お付き合いだから行くのか、それとも訃報を聞いてやむにやまれず駆けつけるのか。人々が集まり、その人についての思い出を語り、その人へ気持ちを向けること、そこに意味があるのです。
そこに集う人たちが、地上を去った者を思う、そのエネルギーが、そしてそのエネルギーの共鳴がその人にとって、その人を力づけ、支え、喜びとなるのです。人々から気持ちを向けられることの喜びを実感して霊界へ戻るのです。
「死者を悼む」とは、悲しみに暮れることや嘆き続けることではないのです。むしろ、その人への愛念を確認し、高め合い、送るものなのです。その心が地上を去った者へ何よりの“はなむけ”となるのです。

ですから、派手な祭壇や高額な戒名、立派なお墓や仏壇がどうしても必要だということはありません。どういう心でその人を送り、その人を思うのか、そのことに尽きるのです。地上を離れて残るのは、物や形でなく“心”そのものだからです。