祖父母(老父母)
歳を重ねるということは、経験を積む、という光の部分のみではなく、“かげり”をも深めるという意味もあります。若いころからのその人の不十分なところが埋められ、突出したところが薄くなっていくだけでなく、硬いところがますます硬くなったり、重い部分がさらに“どうしようもなく”なってしまうこともある、ということです。
それらのために問題が起こり、“年老いている者”と“若い者”との間に不調和が生じたり、かみ合えない部分が多くなったりするのです。
それぞれの意識の違い、経験の違い、そして肉体的な条件の違いなど、むしろ“かみ合えるところ”が少ないのが現実です。
しかし、共に暮らすかどうかは別として、互いに縁がつながっている以上、目指すべきは“和やかさ”であり、“いたわり合い”であり、“助け合うこと”です。客観的に見て、より柔軟に対応していくことができる方が、つまり、若い者の方が、年老いた者へ“いたわり”“感謝”“尊敬”をこめて関わるべきです。<br>年老いた者は、これまでの自らの人生の“仕上げ”の時期を迎えているのですから、そこでは今までの人生を実りあるものとして喜べるよう、まわりの者が手助けをしていくべきなのです。それがいたわり・感謝・尊敬の気持ちを向けることであり、それを言葉や対応の仕方、行動で示していくのです。それは、それぞれの厳しい状況のなかで今まで生きてきた人々に対しての礼儀でもあるのです。年老いた者に対して、それを敬い、感謝といたわりのエネルギーを向けるのは、いずれ地上を去る者に対しての最大の「援助と祝福」のエネルギーを注いでいることになるのです。向けられたそれらの気持ちを携えて彼らは地上を離れるのですが、それがその先の霊界での暮らしにおいても“喜び”として引き続き彼らの手に残るのです。
人生の終盤に差しかかって、「こうやって生きてきてよかった」とその人が心から思えることは、その人がその人生の目的を果たしたと言い換えることもできます。たとえ目的の達成が十分ではなかったにせよ、それまでの自分の人生を肯定すること、喜ぶことができれば、それによって抱えてしまった“かげり”は解消できるのです。 そうできるかどうかの鍵を握るのが、年老いた者に関わる者たちの接し方だということなのです。彼らが穏やかな気持ちのなかで日々を過ごしてくれることは、“若い者”にとってもまた、「安心」や「喜び」のはずです。
物質的・金銭的な支えはもちろん必要です。しかし、いついかなる時も、自分たちのことを思い、心に掛けてくれる者たちがいるのだという確信は、彼ら(年老いた者たち)にとって、かけがえのないものです。それが同時に、彼らの心と体の健やかさの“もと”になるのです。健やかななかで老いていくことは、不可能なことではないのです。元気さやいきいきした様子は、心の喜び、安定感あってこそなのです。そのことはまた、年老いた者の幸せのみではなく、“若い者“にとっても幸せなことのはず。互いの肉体的な“健康”も、両者の関わりのなかでは重みを持つことだからです。
いずれは誰もが迎える“老い”ということを、自分のこととして考えた時、どんなふうに関わってもらうことを、どんな対応をしてもらうことが自分にとって嬉しく幸せかを考えれば、自ずと、どういう心でどう関わっていくべきかの答えは見えてくるはずなのです。それをしていくだけのことです。自分が向けた態度はいずれ自分が向けられるものとなり、自分が注いだ気持ちが、自分にも注がれるのです。
“老い”ということは地上の者にとっては「寂しさ」「心細さ」「悲しさ」「頼り なさ」というイメージをもって受けとられがちです。しかしそうではないのです。 もう役に立たない、用済みの者などと自分たちを思うことは全くありません。今までの人生に誇りをもっていいのです。よくこれまでやってきた、と。しかしできるならば、自分の人生を振り返った時に謙虚な気持ちは持ってもらいたいもの。“後悔”ということでなく、“申し訳なさ”ということでもなく。
自分が不十分だったこと、至らなかったことについては素直に見ていく心の余裕を持つことができるよう祈ります。
いずれにしても、それまでの自分やこの先の自分を、“価値のないもの”とだけは思いませんように。あなた方が存在したからこそ、そこに連なる生命があり、さまざまなものが伝えられ、続いているのですから。