霊界通信 「家族ということ」悠々塾ホームへ

 親子(子育て)

親子ということについては、どちらの立場から見るかによってその意味あいに多少の違いが生ずるのですが、共通して言えるのは、「そういう子供を持つ親としてどう生きるか」「そういう親を持つ子としてどう生きるか」というところです。しかしその親もまた子供時代には「そういう親を持つ子として」ということがあったのであり、これは現在に至るまで連綿と続いてきたつながり、であり、連鎖なのです。その家庭、その親子によって受け継がれ続けている傾向、“かげり”といったものがあって、それはどこかで喜びへと変換されなければなりません。
本来、親から子へと引き継がれるものは、父と母とがそれぞれ有する傾向としての要素のはずであり、それは“喜び”へとつながる要素です。それは明るさであったり、優しさであったり、強さであったり、正しさであったりというように、その人のエネルギー傾向であるのです。それは別の言い方をすれば“性格”とも言えますが、そういったものの“もと”となるエネルギー傾向のことです。

父親と母親は、それぞれが子供と関わっていくなかで、それぞれのもつ傾向の違うエネルギーを十分に発揮していかねばなりません。“人”として我が子を育てていくことは、自分たちの持てる力を惜しみなく注がねばならないほど大切なことであるのですし、それだけの大仕事なのですから。しかし逆を言えば、それだけに(ほかでは得られぬ)大きな喜びも与えられるのです。
喜びの結果としてもたらされた生命が、成長していくことを目にし、また実際にそれに関わっていく過程では、あらゆる場面で喜びを実感できるのです。
もちろん心を痛めたり、悩みを持つこともありますが、それでも、それを越える嬉しいことが必ずもたらされるのです。自分たちの生命の一部を直接に受け継いだ生命と関わることの素晴らしさは、まさに、生命の輝きに直接触れる機会だと言えるのです。

子供は成長する過程では“学ぶこと”の連続であり“与えられること”の連続だと言えます。人としての正しさも、人としての優しさも事あるごとに、そして日々の暮らしのなかで“当たり前のこと”として教えられていくのです。いかなる時も愛情によって受容され、また守られている安心のなかで育っていくのです。何があっても自分には自分の全部を分かってくれる人たちがいるということの安心や確信は、その子が健やかに成長していくうえで、伸び、広がるエネルギーの基となるものです。安定した心の状態が安定した成長を約束するのです。両親の姿に、その子は人としていかに生きるべきかを知ることになるのです。そしてそこで身につけたもろもろのことを、次なる我が子に伝えていくのです。自分が受けた計り知れない愛情やたくさんの教えを自分もまた注ぎ、授けていくのです。それはまさに喜びの連鎖なのであり、それが生命の連鎖なのです。

残念なことに今の地上界では、この「喜びの連鎖」が親子関係のなかにあまり見出せません。
むしろかつての人生で、互いの間に作ってしまったカルマの解消が先決問題だという“かげりの連鎖”が、親子関係のうえに反映されていることの方が多いのです。もちろん、そのカルマを解消することは喜びの連鎖を取り戻すということではあります。しかし重ねられ、連ねられてきたものを転換するのはとても苦しく、難しいことです。
あちこちで親子間でのトラブルや事件が発生しているのは、その“かげり”が極まり、具体的な事象として形をなしたということです。

今の世に生きる人たち全体が、互いの心に対する信頼を失いかけています。
親子にしてみてもそうです。互いの心に触れたり、踏み込んだりすることを恐れ、できるだけ何事もないかのような折り合いのつくところでの“調和状態”を保とうとしているかのようです。
けれども本当はどちらともが「本当の気持ちを分かってほしい」というところで求め合っているのです。しかしそれに応えてはもらえまいという恐れとあきらめのために、それに向き合おうとできずにいるのです。
本当はお互いを信じたり、楽しい言葉を交わしたりしたい。一緒に楽しみたい。もっと話を聞いてほしい。甘えたい。可愛がりたい。------たくさんの“本当の気持ち”をお互いの胸の奥に抱いたまま、出せずにいるのです。
せめてどちらか一方が、「自分は本当はこういう気持ちだったのだ」と素直に心を開こうとすれば、必ず変化はあるのです。なぜなら、誰もが仲の良い親子でありたいと願っているのですから。
そうしたい、そうしようと思うことのできた方から、勇気をもって相手の心の扉をたたくこと、それが必要なのです。働きかけることなくしては、“変化”や“求める結果”はやって来ないのです。
「仲良く」という当たり前の姿と、そこから生ずる大きな喜びを、今こそ取り戻して頂きたいと私どもは願うのです。