自殺、死刑
<自殺>
あなた方の誕生から死に至るまでは、全て、地上に生まれ落ちる前に、すでに設定ずみのことです。もちろんその人生についても。
しかし何もかも“予定通り”に事が運ぶのではありません。地上に生まれた時には霊界での記憶も、今回の人生についての課題も、全て消えるのですから。
地上で生きるあなた方の「気持ち」と、「魂の意識」の間には隔たりがあって、だからこそ、計画通りに(まるで操り人形のように)はいかないのです。自分の人生における選択は自分でしていく、それが自由意志というものであり、その自由意志をどう働かせていくかが、つまりは「どう生きるか」ということなのです。
今回の人生は嬉しいことばかりではありません。それは誰もが背負っている課題のためです。しかしその苦しさのなかで心をくもらせず、人としての正しさを貫きながら愛情を広げていくこと、それが今回の人生で背負ったものを解消していくだけでなく、それを越える喜びを実感していくことにつながるのです。
けれどもそういった苦しさ、つらさ、悲しみという設定のなかで自分をどうすることもできず、生きることから逃げようとしてしまう者もいます。状況が厳しい時期を迎えるほど、人々の心から希望や喜びが失われていくほど、そういった者たちは増えていきます。
「今の人生から逃げて地上を離れれば“楽”になる」それは誤りです。地上を離れたとしてもその魂が「課題としたこと」からは逃れられません。解消されるまで背負うものなのです。まして、定められた地上人生、神から授かった地上的な生命(肉体)を自分で断つということは、「喜び」であるはずがありません。そのこと(自殺という行為)そのものが大きな“かげり”となるのです。よって自らの意志で肉体から離れようとした者が、本来の戻るべき霊界へ戻ることができるはずはありません。
彼らは幽界において地上の続きから始めることになります。地上において抱いたかげりのなかに生き続けねばならないのです。つらさや苦しさは解消されるのでなく、それのみの世界に生きることになるのです。
いかなる理由があるにせよ、与えられた地上生命を自ら断つことは許されないことであるのです。生き続けているからこそ、人と関わりが生まれるのです。失意や絶望のなかにあっても人の善意や優しさに触れられる。手を差し伸べてもらえる。分かってくれる人が現れる。喜びもまた、もたらされる、ということなのです。
その人にとって必要だからこそもたらされているさまざまなものは、その人の魂が学びを進めるうえで“設定”したことではあります。しかし、たったひとりでその苦しさのなかに放り出されているわけではありません。多くの人との関わりのみならず、あなた方の認知できない、霊界からの導きと援助のなかに常に置かれているのだ。苦しさのなかではやがてもたらされる喜びを思いにくいものです。しかしひたすら真実や愛情に向かって生きる心が、必ず喜びを引き寄せるのです。
向き合うことから逃げた先には平安があるのではなく、逃げ出してしまったそのことが待っているのだということを知って頂たいのです。
<死刑>
自ら地上生命を断つのと同様、「死刑」は成されるべきではない行為です。償いとは、自分の“働き”をもって人々に貢献することによって成されるべきことです。
「死刑に相当する」ような罪を犯してしまうことそのものにも、意味・理由があります。(それは霊的視点からみて、ということです。)
地上の人間が、誰かの地上的生命を断つということは、霊界において設定されたことに反する行為であり、その生命を断たれた者の“償い”の機会を奪うという大きな罪を犯したことになります。つまり、学びの邪魔をしてしまうことになるのです。地上的な生命を人の手で断つということは“法則”に反することなのです。だからこそ、それを罪として、犯した者は償いを求められるのです。しかし「死刑」という名のもとにそれを「合法化」することは、言い方を換えているだけにすぎません。
「罪を犯すこと」については別の項で述べるが、それを含めて、人の行為行動には必ず原因・理由があるのだということと、見るべきは動機、その人の心の背景であること、さらにはどうすればその人が、犯した過ち以上の喜びを人にもたらすことができるのか、を見ていかねばなりません。過ちというかげりは、人々への貢献という光によって解消されるからです。