−はじめに−
「自分はどうしたらいいのか」「自分は何をしたらいいのか」その具体的なことが見えないために、前へ進むことができず、先を思うこともできず、立ちすくみ、うずくまる人々がいかに多いことか。
「現状を変えたい」「自分が変わりたい」という欲求が高まっていても、あきらめてしまうのは、“どうしていいのか分からない”からです。そこでは、人々が目指すべき方向を示し、導くスピリチュアリズムが果たしていく役割は大きいと言えます。
しかし、スピリチュアリズムを知ることのみに興味関心がいってしまい、「自分が実際にどう暮らし、どう行動しているか」から離れてしまえば、それは本末転倒となります。いかに生きるべきかを知れば知るほど、それを実践につなげていかねばならない責任が生じます。
なぜならば真理の普及が目指すものは、実際にそうやって生きていこうとする人々を増やしていくためだからであり、この地上界を思いやりと愛情に満ちた世界にしていくためなのです。そこでは、知ることで「得をする」ためでも、知ることで「特別な人になる」ためでもありません。知ることで得られるべきものは「謙虚さ」や「貢献の心」や「公平公正な態度」や「人を尊重すること」といった神に見せるに恥ずかしくない「人としての心」です。それまでの至らぬ自分に気づき、恥ずかしさを覚えることです。自分の動機のなかに曇りがある(あった)ことを自覚・意識し、それを変えていこうとする意欲です。
霊的真理を知ることは、幸運を手にすることが目的なのではありません。自分を顧ることで、結果的にその人が輝く、ということはあるとしても。自分の至らなさを知ることで人との関わり方、接し方が変われば、その人は当然「幸せ」を感じながら暮らしていけるでしょう。
手軽に「いいこと」を手に入れる方法として、「学び」があるのではありません。
「霊的真理」はあなたの心を写す鏡のようなもの。そこで写し出されたあなた自身の心がいかなるものか。あなたの言動がいかなるものか。それを自分の外から客観的に見つめるための手助けなのです。しかし、決してそれはあなたにとって“甘いもの”でも“優しい”ものでもないかもしれません。時には厳しく示されるものです。その前で素直に、真摯にあろうとすることは実は難しいのです。そうできている者は非常に少ないのが現実なのです。
「霊的真理」を口にするのは簡単です。スピリチュアリズム、スピリチュアルな、という言葉の響きやイメージであたかも自分が「真理」を手にしたかのような気分に浸ってしまっても、それは何の意味もありません。
自分の言動、自分の動機、それらを顧ることが本当にできるかどうか。それが、本当の「スピリチュアリスト」であるか否かの分かれ道だと言えるのです。
−概要−
地球霊界の誕生、地球の誕生、地上人類の誕生、といった霊的進化のプログラムにおいて、霊界側からの働きかけは地上人類の霊的進化の援助を担う。そのひとつがいわゆるスピリチュアリズムである。
霊界側からの働きかけがこの数百年で始まったのではない。地上人類が誕生する以前からその働きかけはあったのであるし、霊界側からの援助のもと、地上人類はその歩みを進めてきたのである。
限りない進化向上を続けているはずの霊界が、なぜそれよりも次元の低い「物質世界」を誕生させたのか。個々の霊は、なぜあえて肉体という衣をまとって「地上人生」を送るのか。喜びのなかで学びを進める霊の在り方が、違った形での「学び」を設定されたのはなぜか。
「神」は全てを喜びとする。それはひたすらに次元を高めて進むだけではない。あらゆる次元に喜びを広げていくことをも喜びとする。
そこで「物質世界」においても、全てを喜びとできるようなプログラムが設定されたのである。霊界には存在し得ない「物質」という波長の世界にまでも神の喜びが浸透し尽くすために。
その最終的な目的が完遂されるに至るまでの、地球霊界にまつわる壮大かつ緻密なプログラムはすでにある。それに沿って、地球の歩み、地球上の生命の歩み、そして地上人類の歩みは進んできた。
地上人類は、与えられた「物質」「かたち」の世界にどっぷりと浸り、その次元に共鳴する心で生きている。「霊界」には本来存在しなかった幽界・暗黒界というものまで作り出しながら。幽界・暗黒界は地上のかげりの延長上に作られた世界である。そして、この世界からの影響は本来の霊界側からの影響力を凌ぐほど大きくなった。
たび重なる「戦い」や「殺戮」「支配・服従」「独占」によって魂の学び、魂の喜びとは相反するもので地上界が覆われていく。愛や真実、正義といった摂理にかなった心は曇っていく。「物質界の全て」を喜びとする、という地球霊界誕生の目的からはるか遠くまで離れてしまったかのような状況が続く。
しかしこの状況もまた地上人類の進化のプログラムには設定済みのことなのである。人類自らが作り出したかげりの集積は、人類の未来を暗いものにしていく。病、貧困、飢餓、抑圧、差別、暴力、争い、事故…。生命と尊厳を脅かすものへの恐れが人々を追い詰めていく。
どうしようもない閉塞感や恐怖のなかで、暗い未来を照らす灯りを人々は求める。未来への希望を抱けるような「何か」、今を喜びとできるような「何か」を求める。それはその時々で、宗教であり、科学であり、思想であり、物質であった。しかし、それだけでは人々が「恐れ」から解放されることにはならなかったのである。
物質界で生まれ、物質界で生きる人間にとって、長年なじんだその世界から離れるということは大きな恐怖なのである。今まで全く経験のない「死」への恐れは簡単に払拭できはしない。ゆえに、「死」に結びつくもの――病、飢え、物質の枯渇――を恐れるのである。
この「恐れ」から人々を解放するために霊界側からもたらされたものが「霊的真理の普及」を目的とするスピリチュアリズムなのである。地上の人間が最も恐れる「死」とは、苦しいもの嫌なものではなく、次の次元への移行の過程に過ぎないこと。「死んだ」のは肉体のみであり、魂(心・意識)は永遠に生き続けているのだということ。少しも怖いことはないのだということ。それを知らしめるために、「霊」の存在を証明し、「霊界」について語った。そして、人類が「生と死」への認識を変え、愛と摂理にかなった地上人生を生きられるよう導くのである。
人間が作り出した今の地上のかげりを解消していくためには、まず「認識・意識、それまでの常識」を変えねばならなかったのである。霊界側からの導きに耳を傾け、そこで示される霊的真理に目覚め、あらゆる恐れを越えて希望を見出していけるように。この地上世界も霊界につながる世界として、かげりのない世界を再構築していけるように。地上という物質世界において、神の意志・喜びが顕現されるように。
スピリチュアリズムとは、人類の進むべき道標となるものである。そこに示される霊的真理は、この先の人類が「当たり前のこと」「普通のこと」として認識していくべきものである。その意味で、霊的真理を知り、学ぶことは、何ら特別なことではない。そしてもうひとつ、知識を得るだけでは先へは進めない。それを「実践すること」が不可欠である。なぜなら、この地上界は「かたち」「物」の世界なのであるから。知り、学び、思い、考えたことを言動に表現する場、顕現する場なのである。「知るだけ」に意味はない。
霊界においては意念が実体をもつ。思ったこと、考えたことは即(霊界における“形”となって)顕現される。地上界においては、思っただけ、考えただけ、では形を伴わない。学ぶこととそれを実践すること、その両方でやっとひとつのものなのである。「知識」を頭のなかだけ、紙のうえだけで終わらせてはならない。霊的真理を知ることの意味は、地上においては、「実践するため」なのである。
よって、霊的知識の多い少ないがその人の魂の学びの程度と一致するとは限らない。知識には乏しくとも、思いやりと愛情をもって人と関わり、自分を役立てる者は学びの進んだ魂の持ち主と言えるのであるし、知識ばかりで実践が伴わない者は、かえって知識が邪魔をしていると言ってよろしい。
現実のこの世界を変えていこうとするならば、必要とされるのは意志と行為・行動である。今、スピリチュアリズムを学ぶ者、学ぼうとしている者に最も求められるのは、霊的真理に沿って生きることである。具体的な自分の暮らしが、心正しく心優しいものとできるかどうかである。自分を役立てようとできるかどうかである。
摂理・法則は厳然たるものであり、わずかな隙間もそこにはない。だからと言ってそれは、「予め定まったようになるのだから、自分は何もしなくてよい」ということにはならない。それは地上人生の放棄であり、地上に生まれた意味を全く理解していないことになる。厳然たる摂理・法則、大いなる意志、導きと計らい、それらに全てを委ねることは大事なことである。
この全託の意識は、人々を「恐怖」から解放するひとつの道筋なのだから。だがしかし、そこで自分の心を尽くし力を尽くすことなくば、それは摂理・法則に反し、大いなる意志に背くことであり、導きも計らいもさらに厳しいものがもたらされることになるのである。
道標を与えられたのならば、その指し示す道を懸命に進んでゆく。それこそが、霊界側と地上の人間との協同作業である。地上人類の霊的進化の主役はあくまでも地上の人間なのだから。